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「編集をする。」

最近インタビューをさせてもらい、あるひとつの文章を完成させた。

肉声から、言葉に落とし込み、相手に手渡し、新たな言葉が加わって、そこにわたしのフィルターも通しながら、もう一度言葉を練り直し、再度相手に手渡し、また更に新しい出来事や思い出も添えてもらいながら、幾度かこのタームを繰り返し、世に出す文章にしていく。

誰かと出会うこと、誰かとお話しすること、誰かを知ろうとすること、そしてその人が発した言葉の裏側を見ようとすることは、わたしが選ばなかったであろう人生を、まるで体験したかのような感覚になれる。

俗にいう「編集をする。」という作業は、わたしにとって、言葉というクリエイティブな部分と、文法という組み立てのパズルのような数学的部分の両方が、バランスよく充たされていく作業であることに気づかされ、その奥深さに今興味をもっている。

今後、文章をつづるにつれ、変化していくのは必然なので、今のわたしにとって、の、状態や源点を綴っておきたいと思った。

「編集をする。」という行為は、ひとつのコミュニケーションツールで、奥深く、ふしぎで、おもしろい、こんなにクリエイティブなものだと思わなかった。「文章をつづる」ことと「編集する」ことは、まるでちがう作業だったことにさえも、やってみて初めて気付く。

そして今、「編集をする。」という表現方法は、自身の等身大とちかい状態でいれる、という事にも気づいた。

以前の仕事のスタンスは、物事に関してそれなりに知識がある状態でないと、と思い込み、自身を追い込むことも多かった。さまざまな仕事や立ち位置を経験する上で余裕がもてなかった事も大いに関係はあると思うが、性格上の完璧主義なところも裏目に出て、ステージに立つ際に一旦ワンギアあげて、居る状態が、常に神経をオンにしている状態でしんどかったからである。

しかし今、この「編集をする。」という作業は、相手の人物像にはじめましてとして出会い、読者と同じ状態で、相手のことを知り、表現することができるのは、自身も初めましての一年生の状態で、疑問や質問を投げかけることができる。

以前のわたしは、知らないという行為は、大人として恥ずかしいと思っていたのかもしれない。そして、自分を大きく見せたかったのかもしれない。でも、いろんな職業の方と出会う中で、むしろ知らないことの方が世の中に多いと知れた今、知らない恥ずかしさよりも、知りたい好奇心の方が優っている。

むしろ知らないことにこそ、何が生まれるかわからない楽しみや希望さえもある。わたしの「すき」は、そこにあった。

これからも、知らないことへ好奇心を湧かせながら、さまざまなことに出会っていきたい。

それがいまのわたしの「編集をする。」

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