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irregular

私の体は、誰かを慰めるためだけに存在している。
肉体的にも、精神的にも。それこそ、あらゆる手段で、私は相手を癒す。
それがあなたの使命なのよ、と母はいつも言う。
だから私は、その通りに生きてきた。
母の命令どおりに、見知らぬ相手のために顔を変え、名前を変え、相手が望む通りの女になる。
私は何も考える必要はなく、全ては母に委ねていればよかった。


彼に出会ったのは、梅雨が明ける少し前、7月の初めだった。
母に指示された場所は、地下鉄の駅に近い、大きな書店。
そこで新しい相手が待っているから。母はそう言った。


文庫の棚に立ち、整然と並んだ背表紙の文字を一つ一つ心の中で読み上げていると、
ちょうど「さ」の著者名の辺りで、「あの」、と声をかけられた。
振り返ると、立っていたのは、背の高い、痩せた、大人しそうな男性だった。
「あなたが・・・・?」
ためらうような彼の言葉を遮るように、私は素早く彼の腕を取った。
「行きましょう」
「行くって、どこへ?」
「どこへでも。あなたの行きたいところへ」

・・・・・・・・


「散らかっているけど」
恥ずかしそうに言いながら、彼は私を自分の住む部屋へ招き入れた。
驚くほど殺風景な縦長の部屋。テレビもない。
あるのはベッドと、狭いワンルームマンションの一室にはまるで似つかわしくない、大きな本棚。
「これから、よろしく」
彼はおずおずと右手を差し出した。私はその手を握り返す。
彼の手は、少し汗ばんでいた。

これから私は、母が組んだプログラム通りに彼と恋に落ち、愛し合い、そして、別れる。


・・・・・・・・


3ヶ月ぶりに帰ってきた私に、母はひとこと、「お疲れ様」と言っただけだった。
母はいつも忙しい。たくさんの娘達の一人一人を、気にかけている時間はないのだ。


私は自分の部屋に戻り、まずメインスイッチをONにする。
低い振動を感じながら、赤や青や黄色や白のコードを、定められた順に、定められた通り、
私の体の定められた部分に差し込んでゆく。
体中が熱を帯びてくる。
このまま目を閉じて、12時間経てば、メンテナンス終了。


そう。
私は、こうやって3ヶ月ごとに、たくさんのコードに繋がれなくては、正常な状態を維持できない。
愛する人を失った人々を慰め、新しい人生を生きる手助けをするために、母の研究室で生み出されたたくさんの娘達。
なかでももっとも古いタイプの私は、充電しないでは3ヶ月しか持たないのだ。
そして12時間後には、それまでの記憶を全て失って、初期状態に戻ってしまう。


それまで私は、そんな自分の定めに何の疑問も持たなかった。
でも今は・・・・・・


昨日のうちに、彼は母の手によって、私と過ごした3ヶ月間の記憶を消去されていた。
私にとっては最後の夜も、彼にとっては見知らぬ女性との気詰まりな一夜だったに違いない。
彼に残るのは、写りのいい写真だけを残して、あちこちが剥がされたアルバムのような記憶だけ。


彼に出会えたこと。彼を忘れてしまうこと。
これから消されてしまう記憶が、やがて私の中からも失われていくふたりの思い出が、まだ私のもとにあるうちに。
「ありがとう、そして、ごめんなさい」
これだけは、どうしても伝えておきたかった。
あと一度だけ、一瞬でもいいから、私を思い出してもらいたかった。
まだ眠っていた彼に気づかれないように、テーブルにおいた手紙。
手紙を読めば、彼はまた私を思い出してしまうかも知れない。
それでも。

私が初めておかした、たった一つのイレギュラー。
彼は、許してくれるだろうか。


だんだんと眠気に耐えられなくなってくる。
せめて、と私は思う。
眠り、やがて再び目覚めたあとも、優しかった彼のことのたった一つでも、覚えていられたらいいのに。
彼のはにかんだ笑顔。それとも、彼の優しい言葉。それとも、彼の暖かい唇。
大切な事を全て忘れてしまうのなら、私は何のために生きているのだろう。


・・・・・・生きている?


パチン。


何かが弾けるような音がした。
さっきまであんなに熱くなっていた私の体が、急速に温度を下げてゆくのが分かる。
異常を示すアラームが、遠くで聞こえる。きっと、母の研究室からだろう。
ばたばたと廊下を走ってくる複数の足音。


「何が原因なの!?」
「どうやら、メイン回路に水が入ったことが、故障の原因かと・・・」


「水?どうしてこんなところに。・・・・まるで、涙みたい」
母の言葉が、薄れゆく私の意識に、かすかに響いた。

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