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たくさんの声に圧倒された

私がこのこのnoteを始めてから、1ヶ月と少し。始める前の勝手な決めごととして、ここには自分のプライベートに関することは書かないでいよう、というのがあった。
今まで書きためてきた、行き場のない文たち。noteで発表することで、どこかの誰かが何かの弾みで見つけてくれるかもしれない。読んでくれるかもしれない。そんな淡い期待もあった。欲を言うなら、読んだ誰かが何かを感じてくれたら嬉しいと思っていた。軽いつもりではないけれど、運や偶然に委ねる、それくらいの気持ち。いいね、はなんだか上から目線に感じてボタンを押すのをためらうけれど、スキという小さなハートで表現するのもいいと思った。スキと言ってもらえることが本気で嫌な人なんていないんじゃないだろうか。

文章を書くことが小さい時から好きだった。左利きのせいだけではないだろうけれど、みんなと同じことが同じペースでできず、小学校では子どもなりの苦労があった。特に体育の授業が苦痛で仕方なかった。早く走れない、飛んでくるボールをことごとく受けられない。球技大会のチーム分けでリーダーが一人ずつ仲間を指名していくなか、いつも私は選ばれず最後の方まで残っていた。この話は、大人になってから知り合った人にはほとんどしていない。トラウマなのか今もスポーツはには抵抗がある。誘われても断ってしまう。見るのは今は好きだけれど。

中学時代もあまりいい思い出はない。公立だったけれど、マラソン大会だの派手な運動会だの水泳合宿だのスキー合宿だの私の嫌いな行事がてんこ盛りで、遠足までわらじを自分で編んで山を歩くという徹底ぶり。私はひたすら勉強に逃げるしかなく、おかげで成績は上がったけれど、先生は勉強だけできてもね、と私の協調性のなさをよく指摘した。もちろん私のことを認めてくれた先生もいたけれど、少し方向性が違っていて、夏休みの宿題で書いた私の読書感想文をクラス全員の前で読み上げたり( クラス中失笑 )、卒業前の合唱コンクールで私にオリジナルの歌詞を書かせたり( これもクラス中失笑 )もういいからそっとしておいて、と言いたくなることが何度もあった。

それでも、私はずっと文章を書いてきた。誰に見せるでもなく、ただノートに、高校生になってからは原稿用紙に、大学に入ってからはパソコンに向かって自分の言葉をぶつけつづけた。読み返すと目も当てられないひどいできのものがほとんどだけれど、あの頃の私だから書けた、あの頃の私にしか書けなかったものばかりだったと思う。

今回、同じテーマで小説を書こうという企画があるのを知って、私も参加してみたいと強い気持ちがわいた。ひとりでひっそりはじめたnote、フォローしている以外に接点もないのに飛び入りで参加するのはとても勇気がいることだった。書きたい内容はすぐに決まったけれど、当日までうまくまとまらず、満足行かない書きなぐりのような文章になってしまった。でも締切は今日、この日に出さないと私には意味がない。えいやっとアップしてみた。

他の人たちの小説を順番に読んだ。朝の通勤電車の中で。会社の昼休みも、社内の人が来ない、高くてメニューもいまいちな喫茶店にわざわざ行って一人の時間を確保して続きの投稿を読んだ。
圧倒された。声というたった一つのテーマにこんなにたくさんの物語があることに。それぞれの作品の中にそれぞれの声がちゃんと聞こえることに。
私の中で、noteの意義が変わった。

私ひとりで、好きなように言葉を綴るだけのスペースだったこのnote。私個人の気持ちやプライベートなできごとにはできるだけ排除して、淡々と書いていくつもりだった。でも、この企画で聞こえてきたたくさんの声に、私も自分の本当の姿と声で何かを返したくなった。笑ったり泣いたり、仕事で頑張ったり、たまにはほめられたり、次の瞬間にくじけたり、誰かとけんかしたり、いらいらしたり、でも笑ったり、そんなありふれた現実を生きる私の声で。

そう思わせてくれた今回の企画に感謝しています。
また機会があれば、チャレンジしてみたいとも思います。そして、このnoteが、本当の意味で私の大切な居場所になるように、これからも言葉を紡いでいきたいと思います。

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