考える力を辞めたって考えないわけじゃない

ブログは手書きの時代じゃない。ちゃっとじーぴーてぃーで効率化の時代派にはあれこれ言われそうですが、手動入力です。2階に行くのが面倒なのとなんとなく心地よいので1階の風呂場前で書いています。

興奮冷めやらぬまま書いてるので支離滅裂ですが、なんか自分としてはかいてすっきりりん✨

小学2年生の息子にいつもあーだこーだいう自分が嫌いで、息子も「本当にうるさいな」と思っているのだと思っています。(そう思ってないよとはいっていましたが)

息子に言うことはだいたい
・鼻くそほじってたべるな(やりすぎて血を出した)
・だらだらしない(寝そべってなにかする)
・言われる前に行動して(言わないと勉強しない)
・字を適当に書くな(0が6にみえる)
・間違いは消しゴムで消して書き直して(3に縦棒かいて8にみせかけてるがBにしかみえない)
・返事をして(返事しないか声が小さい)
・もう〇〇分たってるよ(アラームかけてるのに止めない)
など、あげたら枚挙にいとまがないってやつなので、ここらへんでごめんなすってえ。

こちらも言いたくないんだけど、眼前で繰り広げられている行動に反応してしまわないとストレスで倒れそう。倒れる前になんとかしたくて今日は冷静になりました。
なので、いかに冷静になれる時間と冷静になるきっかけを作るかが子育てにおいてはものすごく重要なんだと改めて感じました。

なぜ、今日は冷静になれたのか?

あまりにも息子と自分が可愛そうだと感じたから。

ここ最近はとくにイライラがすごくて、全く反発しなかった息子が反発するようになったことと、上に書いたことが昔から全く変わらないこととか、すぐにネガティブな発言するとか、勉強の理解が悪い、手先が不器用…などが重なり小言がエスカレートしてきょうですよ。

「もういい加減にしてくれ!!」

と大の大人が大声を上げて強めの口調で責め立ててしまった。これまでは爆発するようなことはなかったんだけどチリツモがバーン!となってしまった。

こんなになるはずじゃなかった。大好きな息子にここまで怒ることがあるなんて嘘のよう。年長さんのときは良かった…公園でたべっ子どうぶつを一緒に食べて、袋の中に石を詰めてまだいっぱいあるねーと、ただそれだけで良かった世界。
いつからBENKYOという病原菌がはびこる世の中になってしまったのか。

勉強が大事なことは間違いがない。社会に出て仕事をするにしても好きなことを極めるにしても勉強は必要。ここでいうのは、そういう必要な勉強ではなくて、「やらなければ恐ろしいことになるというマインドコントロールバグシステムのBENKYO」を指します。

だれもがこのバグに汚染されてしまった事はあるのではないでしょうか?汚染されるとヤバいです。周りが見えなくなり「子どものため」といいつつ世間体だったり、自分の過去のトラウマを払拭するためだったり、何らかの形で自分を正当化する理由をもつように思考を変えてしまいます。

はじめは子どものためだった。
子どもが自分の頭で考えて、選択肢が提示されたときは自分で判断して人生の荒波を進んでいく…。
そのために進研ゼミ小学講座 考える力 は必要だった。

やっていくうちに、めきめきと力をつけ、国語に関しては絵本とか文庫本なんて読んだことないのに読解力がなかなかのものになるし、社会という項目の中には道徳観を養うような問題がでてくるのだけど、それも人間の鏡のような模範的道徳心をみせつけてくるし(実際に優しい子)、算数も難しい問題をとけるようになってきた。

ただ…。

こと算数に関しては内容がだんだん難しくなり親がつきっきりでないと回答するのが困難になってきた。

教えてもわからない→わからないのでだらける→いらつく→口調強くなる→さらにだらける→キレる というあるまじき行為にでてしまったのをきっかけに「考える力ってなんでやってるんだっけ?ここまで二人とも?辛い思いしてやる意味はなんだっけ?」となぜか別の世界に一瞬行ったようなチョー冷静モードになり、「やめるか」といった。

これはネガティブなやめるではなくて、彼が得意な英語にシフトしたほうがいいかもという考えが頭をよぎったのである。
しかも進研ゼミ小学講座にこだわっていたがnoteをみたらRISU算数というのをみなさんやっているではないか。

なんか勝手に闇に落ちて光がさしたようなそんな感じになった。

noteありがとう。同じ子を持つ方々、参考情報に感謝します…。

私はBENKYOに侵されてどうかしていました。
かれの人生を一番に考えるのであれば彼が楽しいことをやらせてあげる。
という、彼が生まれて間もない頃から小学生になるまでには当たり前のようにしてきたことだったのに、どこかで置き忘れてきてしまっていた。
わたしは、彼の親であるが人間としての彼がとても素晴らしいと思う。人にやさしく、無償で与える。勉強よりも大事なものを持っていることを誇りに思う。