「劣等民族」発言の行方
説明責任しろとまでは言わないが、取ってつけたような謝罪ではなくせめて自分の言葉で自己弁護でもいいから返答をしてほしかった。無論「劣等民族」発言で炎上させた青木理のことである。
案の定、2週に1度だけのレギュラーであったTBS『サンデーモーニング』から前触れもなく姿を消した。
『サンデー毎日』の自身の連続コラム「抵抗の拠点」の中ですら「劣等民族」の「れ」の字すらなく、唯一微かな形跡が窺えるのは『月刊サイゾー』(2024年11月号)での元『噂の眞相』副編集長川端幹人との対談くらいである。
「石破茂も、リベラルの一部までが期待しているみたいだが、どうかと思うよ。世襲議員という意味では安倍や進次郎などと同じだし、安全保障では超タカ派ですよ。」と嘯く青木節は、川端自身が「この対談は総裁選前なのに、雑誌発売時前(9月30日)には新総裁が決まっているという…」と明かしているように総裁選の直前で「劣等民族」発言後(9月12日配信YouTube『ポリスタTV)に行なっている対談と思われるのだ。青木の過去の発言からすると日米地位協定の見直しについては石破を支持していた節もあるので、リベラルの一部の人は石破に期待していることを認めつつも自民党に自分が票を投じることはあり得ない、つまり「劣等民族」発言の自己弁護とも取れるのである。
これまでも青木の主張に矛盾を感じないわけでもなかった。例えば死刑反対論者としての一貫性についてである。
以前鳥取連続不審死事件を追って上田美由紀死刑囚と面会し、『誘蛾灯 二つの連続不審死事件』を上梓した青木は、同じ不審死事件である首都圏不審死事件には全く関心を示さなかった。獄中から自分の事件も取り上げてもらいたいという木嶋佳苗死刑囚からの誘いを耳にしても即答で距離を置いているからだ。鳥取連続不審死事件に比べると閉鎖性が薄いから食指が沸かないだろうことは分るが、本人から指名され物証のない事件に一家言あるにも拘らず即座に敬遠することには疑念を感じる。本気で死刑制度に言及するつもりがあるのかと言いたい。
SNSを使用しないことへの豪語にしたって上から目線そのものだ。実績があるからSNSを使わなくても済んでいるだけで、ほとんどの書き手は仕方なく宣伝にSNSを使っているというのに、そこに考えが及ばないのだ。
ただコロナ禍の際にやみくもに緊急事態宣言を要求する他の自称リベラル言論人に比べれば、(緊急事態宣言を)出させることで主権制限に繋がるのではないかと警鐘を鳴らしたことには評価に値する。
他の著書についても振り返ってみた。
まず『日本会議の正体』に関してはどうしても先行作品である『日本会議の研究』(菅野完)にインパクトや話題性では分が悪いがその分完成度は高かった。それは生長の家の創設者が行う信者獲得への貪欲さを赤裸々に見せたことにある。刊行当時は、清和会が傍流であったとはいえ岸信介の孫である安倍晋三は強い地盤があるのだからそこまで日本会議に頼らなくてもいいのではないかと思っていたが、今から考えると晋三個人は選挙に勝てても自分が旧統一教会を使って選挙の差配をしないと子分たちが勝てないことがよく分かるからだ。だが安倍の系譜をたどるルポタージュ『安倍三代』は初代二代においての研究が丹念である一方晋三の人間像への踏み込みが甘く、なぜ晋三が戦後民主主義に敵意を抱いたのかに辿り着いていない。
「劣等民族」発言への反応にも触れておきたい。一応は客観性を保って言及したのは東浩紀(AERA ’24.9.30 EYES)と古市憲人(週刊新潮10月24日号「誰の味方でもありません」)だが、予想通りの展開で、決して真新しいことを言っているわけでもなく、しごく常識的な内容だ。「冗談の背景にある自民党支持者への明らかな蔑視だ」という指摘はまあ頷けるし、SNSで名指しはしないものの青木の発言を批判し火消しに回った米山隆一の行動は「政治家として当然の判断」というのも同意できるが常識的過ぎて流しがちなコメントだ。
東は、安倍晋三銃撃事件を肯定するような発言を発端にして「近年リベラルの論客は過激な発言が目立つ」と憂いている。青木の「劣等民族」発言もその一つだと。東はなぜ右派の過激な発言には目を剥かずに左派の発言ばかり苦言を呈するのかと思われる向きもあるが、その点は仕方がないだろう。真のリベラルへの道は厳しいのだ。寛大で自由という意味もありいずれも肯定的な形容詞で美名とも言える。だからたとえタテマエであってもリベラルたる者寛容でなければならないのだ。相手の思想や政治的立場がたとえどんなにか自分と違っていても、「君の意見には反対だがそれを言う権利は命にかえても守る」というヴォルテールを地でいくような人でないと真のリベラルとは言えない。人権意識や言論の自由を貫くということは相手が誰であれそれを実行しなければならない、厳しい選択なのだ。
筆者はリベラルに該当する人間などいないと思っているが、それに近い人間が全くいないわけではないとも思っている。これは筆者の持論だが、リベラルというものは名乗るものではないのだ。まるで自分で自分を寛容だと言うようなもので恥ずかしい。だから真のリベラルは自称でなく他称で、そして有権者を愚民扱いなどしないはずである。もっともリベラルや寛容は美名だが、愛国だって美名に違いないのだが。
東に続いて古市のコメントで目に入ったのは「民族」ワードへの見解だ。古市が指摘するように本来は「民族」という単語を好んで使うのは右派であり、左派が抑揚するはずの言葉をなぜ平気で使うのかというのは至極ごもっともである。しかし青木がそこまで牧歌的かと言われるとそうとも言い切れない。どちらかと言えば使わないはずの「民族」ワードをあえて確信犯的に使ったものではないのか?無論青木を擁護しようというわけではない。確信犯的に使ったにもかかわらず、有権者への最低限の敬意が抜け落ちているからである。
古市が青木からの出演自粛はやり過ぎというのも同意だ。
「劣等民族」発言における謝罪と撤回、地上波番組の出演の自粛見合わせも言論人にはあるまじき逃亡である。今からでもいい。「抵抗の拠点」(サン毎)での自己弁護でもいいし、せっかくなら地上波からBSに引っ越す「朝生」で洗礼を受けたらどうか?それに一時期はセミレギュラーだったのだからこの機会に再登板したらどうなのか?
と思ったら10月15日に文化放送の選挙特番に出演することが発表された。10月27日午後9時から放送する「文化放送衆議院選挙開票スペシャル ~みんなのホンネ~」での生出演だ。確かに長野智子と大竹まことならガードしてくれるのだろう。随分と楽なやり方を選んだものだと感心する。しかしBSに移行した 朝生の初回放送が27日であるはずの予定が、衆院選の影響もあり11月3日になった。朝生の初回は事実上選挙特番になるということか?ならこっちにも出れるだろう。言論人としての矜持があるならこれが青木の最後の機会だ。