掌編小説「座して燃ゆ 下」(1000字)
葉山しずかは部屋で日課の読書に勤しんでいた。
読書といっても、8歳になる息子、アキラに買ってやった本を読んでいるのだが。
児童向けの拙い物語ではあるが、文字は英語で書かれている。
夫はアメリカに単身赴任中。
当初一年程の赴任予定であったが、あと半年、あと一年と帰国の予定がずれていき、最終的には私とアキラがアメリカに行くことになってしまった。
アキラは英会話教室で楽しく勉強しているらしいのだが、私は少し苦戦中。
辞書を引いている時間の方が長いようでは、まだまだ読書と胸を張って言えそうにない。
「ただいまー!」
「おかえり、アキラ」
「ねぇママ、おじいちゃんてさ、もう落語しないの?」
帰ってくるなり、アキラが純粋な目で質問をぶつけてきた。
おじいちゃんこと、私の父である葉山十三(じゅうぞう)は落語家である。
といってもこの数年は活動しておらず、病院と兄の家を往復しているような状況が続いていると聞く。
「おじいちゃんは体調がまだ良くならないみたいだね、でも、なんでいきなり?」
「英会話教室でねー、友だちが落語好きなんだって言ってたから。おじいちゃんのことも知ってたよ」
「へぇ、子どもなのに、めずらしいね」
「ノアって子なんだけど」
「ノア?外国人の子?」
「そうだよ、家族みんなアメリカ人なんだって。でも日本が好きで日本に引っ越して来たみたい、おじいちゃんの落語、ノアと一緒に見れたらいいのになあ」
「うーん、それじゃあアンタ、直接おじいちゃんに頼んでみる?」
手に持った本を一旦テーブルに置き、ゆっくりと立ち上がる。
時計の針は昼の二時を指していた。休日はまだまだ終わらない。
病院の電話可能エリアでは、葉山十三が孫との通話を楽しんでいた。
「お母さんに聞いたよ、アキラ、英語の勉強がんばってんだってな」
「うん!アメリカ人の友達もできたよ!ノアっていうんだ、おじいちゃんにも会わせたいなあ」
「そうかあ、アキラはすごいなあ」
「ノアは落語大好きなんだって!おじいちゃんのことも知ってたよ!だから早く元気になってまた落語してよ!いっしょに見に行くから!」
孫の純粋な願いを前に、戸惑う。
「そ、そうだな、おじいちゃん早く元気にならないとな」
「そうだよ!来年になったら僕らパパのいるアメリカに行っちゃうんだから、それまでに元気になって、落語見せてね!約束だよ!」
「あ、ああ…」
「じゃあおじいちゃん!早く元気になってね!」
落語家、菊乃家千月。
高座を降りて五年と三ヶ月。
もうなにも残す気はなかった。
それでも残っていたものは、あった。
「もしもし、俺だ」
「千月師匠?どうしたんです」
「名前でもなんでも、くれてやる。その代わりに少しばかり、稽古をつけてくんねえか」
ならば、雲隠れには、まだ早い。
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