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奨学金をめぐるいくつかの懊悩と覚悟

私は、奨学金を借りて大学へ進学する。

この間、日本学生支援機構の貸与型奨学金に関する書類を受け取った。たくさんの書類が入った分厚い茶封筒を抱えて、私は恐怖と焦燥がふつふつと湧き上がるのを感じた。

この気持ちのわけは、奨学金がすなわち借金であるからだ。「借金」という単語は、ガキにはあまりに重い。私は大学を卒業したら、借金を返済しながら生きていくことになるんだな。そう考えると、たまらなく怖くなってくる。

それはクラスメイトも同じのようで、何人かの友だちと奨学金の話になると重くどんよりとした空気が立ち込めた。
「奨学金か〜」
「奨学金だね〜」
「バイトしなきゃね」
「バイトするなら…古本屋とかがいいな。あのほら、おじいさんが一人でやってるようなひっそりしたさ〜」
と、そのあと結局どんなお店でバイトしたいかというみずみずしい話題にするりと移行していくのだから、なんだかんだ言ってやはり我々は希望に満ちた子どもたちだ。


大卒という学歴が欲しいがために進学を選択する人もいるはずだ。だが私は違う。私は本気で、大学で勉強に打ち込みたいと思っている。
お金の心配なんかしないで、大学に進めたらどんなにいいかと思うけれど、そうはいかないのだろう。


けれど、少し立ち止まって。私は世界を股にかける大人になりたいので、広い視野で眺めてみる。


私はたしかに、奨学金がなければ大学には行けない。しかし、両親は大学に私が行くことを心から応援してくれている。大学に喜んで行かせてくれる。参考書や模試の代金、塾の月謝を、当たり前に払ってくれている。決して安くはないのに。
それがどれだけありがたいことか。


この時代、この日本にも、大学になんか行かなくていい、働けと言われる子どもはいるだろうか。女のくせに勉強なんかしなくていい。学があったってどうしようもない、と言われる女の子はまだ、いるだろうか。私は多分、いるのではないかなと思う。
そういう人が一人でもいるならば、私は恵まれていると言わなければならない。
海の向こうに目を向ければ、勉強をしたくてもできない子どもたちは星の数ほどいる。彼らのほとんどは、奨学金など当然のように手の届かないところにある。彼らと比べれば、私は恵まれた子ども以外の何者でもない。


今、私はこの懊悩に対して一つの答えを出した。それは、奨学金が私の学びたいという意志、その覚悟の証であるということだ。

(もちろん高校もだけれど)大学こそ行きたい人だけが行けばいいし、行かなくたって普通に生きていける。その道はちゃんと開かれている。
それでも、私は大学進学を選ぶのだ。大学で学問を究めるのだ。奨学金はその覚悟や決意を形として示すものだと思う。
そう思ってみれば、俄然やる気が出るというものである。一人の人間として、自分の意思で自分の進みたい道を決め、そのために奨学金を借り 返してゆくのだから。


そして、これは自分への覚悟であると同時に、この10数年、大切に育ててくれた両親へ自分の意志を示すものでもあると思う。私は4年間、ひたすらに勉学に勤しみます、と。そんな強い意志を、奨学金を通して二人に伝えたい。



私は、大学に進学する。

奨学金という、覚悟を背負って。

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