005「金魚撩乱」岡本かの子

罪な女と魚

「大正サイコラブ」と称されるこの作品だが、「大正」も「サイコ」も「ラブ」もどれも大好きな要素だ。この作品が私に刺さらないわけがない。そんな期待を胸に読もうと思った。これも、先の004で述べた通り、私は倒錯した人たちが狂い堕ちて、おぼれていく姿を嗜好品として享受している人間なので(なんと悪趣味な!)、金魚撩乱もまた非常に甘美な毒だった。本当に良かった。甘いが度数の強いアルコール飲料を少しずつ飲むような感覚に似ていた。


はじめは、それこそ復一が真佐子を(思い込みかもしれないが)いじめたり、「お前のようなはしたない女は嫁に行けない」などと罵って遊んでいた。真佐子よりも復一のほうが優位な立場にあったのである。

花片はやっと吐き出したが、しかし、どことも知れない手の届きかねる心の中に貼りついた苦しい花片はいつまでも取り除くことは出来なくなった。

しかし、花弁の一件を経て、貼りついた花弁のように、復一の中を真佐子は支配し始める。はじめは葛藤するが、屈服する様は何とも惨めで美しかった。金魚を介して、金魚のせいで倒錯した愛が加速していく。

復一を振り回しかき乱す真佐子は悪魔そのものだった。

「真佐子、真佐子」と名を呼ぶと、復一は自分ながらおかしいほどにセンチメンタルな涙がこぼれた。

真佐子のような金魚を作ろうと意気込むが、本当の金魚はどちらなのだろうか。復一はまるで餌を求めて水面に向かって口をパクパクさせる金魚のように、真佐子からの愛を求めている気がする。それを何とも滑稽なものでも見るかのようにしているのではないか。

やはり、この作品は私に刺さった。支配者と被支配者の逆転が行われた瞬間にこそ倒錯した、依存関係の証明が行われる気がする。その瞬間や過程がたまらなく美しい。

彼は到底現実の真佐子を得られない代償としてほとんど真佐子を髣髴させる美魚を創造したいという意慾がむしろ初めの覚悟に勝ってきた。

真佐子を手に入れられないのだから、真佐子の代替物として金魚に投影しようとする。これが復一のこじらせた一途でありながらどこか汚れている愛のなれ果てか。真佐子には夫も子供もいるというのに、いまだに好きな復一はもはや憐憫の対象ではないのか。不純すぎるがゆえに純粋すぎる。ただ、私は決して復一の愛が報われてほしいだなんて微塵も思っていない。このまま永遠に思い続ける地獄に落ちてほしい。それこそが美しいと思う。

身近な愛玩動物である金魚にここまでの美と倒錯を見出している。私も過去にすごくすごくかわいがっていた金魚がいた。また、比喩として用いられる金魚もすごく好きだ。狂おしくも残酷な自分の愛に狂わされて、自分の首を自分で締め、落ちていく様が何とも惨めでむごたらしくて、でも美しい。癖になりそうだ。

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