「詩のソムリエ」は社会をいいほうに変えていきたい。おかやま100人カイギこぼれ話
「詩のソムリエ」の活動や取り組みを、おかやま100人カイギでお話させていただきました◎
テレビスタジオの独特な緊張感はありつつ、出演者の「農業界の新風」梶さん(この記事にも登場)とコミュニティマネージャーのまさとさんは普段からなかよしだったので本番前にお喋りしてリラックス。
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梶さんの出番は9分ごろ〜、渡邊は20分ごろ〜、まさとさんは22分ごろ〜。
お友だちがそれぞれ何してるかは知ってたけど、活動の裏にある思いやビジョンを聞くとぐっとくるなぁ。
好き×憤り=持続的な情熱
さて、話してやっぱり思うのは、詩がおもしろい最高大好き!!!という気持ちと、ゆえに感性や多様性を抑圧する教育や社会への疑問が、根底にあるなぁということ。
「好き」と「憤り」。その両輪があってはじめて、「持続的な情熱」になっているんじゃないかと思います。(友人の受け売りですが)
わたしはもともと詩がすきで、詩に助けられ、詩の研究に没頭してきたというバックグラウンドがありつつも、「詩のソムリエ」になったのは2つの社会的なきっかけがありました。(※ここからはお話していないこと!)
ひとつは、3.11。
そしてもうひとつは、会社員生活。
3.11 ことばを失ったとき、そこに詩が残った
"詩は社会にとって必要なのか?"
もともと、「文学部不要」「実学重視」みたいな空気をビシバシ感じる社会のなかで文学研究者をめざしていたわたし。ただ「世俗から離れて」研究したかったのではなく、常に、「詩は社会にとって必要なのか」ということに答えたいと思い、社会と詩がもっとも緊密な関係にあった「戦後詩」を研究していました。けっこう必死だったしパンクだった。
自分にとっては、メッチャクチャ必要だったんです、詩。
水レベルで必要だった。
「悩み」は言葉にできた瞬間に9割解決していると思うのですが、それができなかった自分にとっては、渇き、乞う心に寄り添ってくれたのが詩でした。
でも、「詩は社会にとって必要だ」と啖呵を切るにはロジックが足りないと歯がゆい想いをしているなかで起こった大震災。
ふだん喧(かまびす)しい広告が黙り、真実を伝えるはずの新聞の情報が嘘だらけになり、毎日CMが「楽しい仲間がぽぽぽぽーん」になった。
あのときの異様な空気。
みんな、ことばを失った。
社会がいっせいにことばを失ったときだったと思う。
そのとき、新聞の一面にあったのが、谷川俊太郎さんの詩だった。
不安と疑心でいっぱいの気持ちで新聞をうけとった瞬間、詩があってどれだけ心が満たされたか。どれだけこれを欲していたか、と気づかされた。
そして、「あぁやっぱり」と思った。
やっぱり、詩は社会にとって必要なのだ。ようやく確信できた。
詩は命綱なのだ。心がさらわれないための。
それから修士2年まで一途に研究をしていたけど、「詩を研究していても社会が一向によくならないなぁ〜」と閉塞感を感じるように。
「社会も自分も気持ちよくするには、働くのがいちばん」という糸井重里さんの「はたらきたい展」での言葉に「マジでそれな!」とすなおに思い、いったん就職することに。続きます。
辛さの数値化、満員電車―ビジネスパーソンは左脳でしか生きられないのか?
というわけで教育系サービス会社に2015入社。
1年目に先輩たちからのイジメにあって精神的に追いやられ、リーダーにしんどい旨を伝えたら「数値で示してくれないとわからない」と言われたり、新宿で死んだような顔した大人たちと満員電車にゆられたり。
呼吸のできなさがすごかった。
感受性をオフらないと過ごせなかった。
でも生き物だから、左脳だけじゃ生きられない。
あの頃は新書やハウツー本もたくさん読んだけど、同じくらい詩も読んだ。
水のように心を潤してくれたのは詩だった。
みんな我慢している。みんな押し殺している。でも、なんのために?ずっとこうしていくの?どうして生きていけるの?
そんな疑問から、サラリーマンの聖地・新橋で、会社員をするかたわら「詩のソムリエ」を名乗り始めた。
華金の新橋で詩のワークショップをやっていた。「詩」というとふんわりメルヘンに思われがちだけど、わたしにとって反逆であり、行為だった。
この、酸欠社会でどう生きるか?
会社では、キャリア教育を担当していたので、「これからの子どもが30年後どう生きるか?」は常に考えながら仕事をしていた。
その前に、今の社会を見渡してみる。
名づけるなら「酸欠社会」とでも言おうか。
感性が豊かな子どもは学校で苦しみ、就活生は同じリクルートスーツに身を包み、大人たちは感性を押し殺して生きる。
生きづらい社会だと思う。誰もが誰かの目をうかがい、感性をないもののように扱い、はみ出さないように生きている。会社が人生の主導権を握っても、あきらめているように見える。
左脳ばっかり使って、「恐れ」と「不安」が常に優位にある。
そして、「歓喜」みたいなみずみずしさは隠される。
詩のソムリエをやっていると、「人それぞれ感じ方がちがう。だからおもしろい!」と思うのだけど、どうも世論はそうではないらしい。
「人それぞれ感じ方がちがう」という至極当然なことが前提とされていないどころか、なお悪いことに、「人とちがうのはこわい→感じないふりをする」となっている気がする。(ちなみに、「個性を大事に」とは、20年以上前から指導要領でも言われているのだけど・・・)
そして、抑圧され自分の感性をあきらめた人は、他人を抑圧しにかかる。
「休学して/会社をやめて、大丈夫なの?」心配するフリして誰かの目を塞ぐ。
統計的に見ると、日本の子どもの自己肯定感も、高校生の進路選択の主体性も異様に低い。
まじで Where is your 感性。
感性さん、どこですかー!!
これらの現象の根っこには「自分の感性を信じられない」ということがある気がする。自分の感性を肯定されたことが少なく、自己肯定感が低く、自己決定できない。そして他人の感性にも寛容になれない。
生き物として、オリジナルの感性をもって生まれてきたのに、そんなの超不幸じゃん!いのちがもったいない。
詩が好きで、詩に助けられたから、詩をもっと身近にしたい、人生のクライシス・モメントにおいて詩に頼ってほしいという思いもある。
でもそれ以上に、詩で社会をいいほうに変えたい。
自分の感性にも、他人の感性にも、「いいね」「おもしろいね」とうなずきあえる社会にしたい。
不安や恐れではなく、生きものとしてのふるえるような喜びを胸に生きる人が増えてほしい。
それは、詩の解釈の幅が広いからこそ、可能になると思うのです。
KSB瀬戸内放送の中村康人アナウンサーに、「ますます活躍してほしいです」って言っていただいて、とてもうれしかった。
がんばりまっっっす!!!!(中高大と体育会系)
KSB瀬戸内放送のみなさま、梶さんまさとさんはじめ、出演者のみなさま、そして配信見てくださったみなさま、ありがとうございました。
おまけ
収録後、おなかペコペコだったので3人でおでんを食べに行きました。
冬は友だちとおでんやね。
そのお気持ちだけでもほんとうに飛び上がりたいほどうれしいです!サポートいただけましたら、食材費や詩を旅するプロジェクトに使わせていただきたいと思います。どんな詩を読みたいかお知らせいただければ詩をセレクトします☺️