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note10 ごはんのこと/映画とか、食卓のこととか。

 ごはんのこと。ごはんをどこで食べるか。どこに食べに行きたいか。そんなことをいつも考えています。おいしいだけではない、自分にとって落ち着ける場所。大切だと思える時間を与えてくれる場所。そんな「どこか」のことを考えています。
 そんなことを考えているのは、ぼくだけではないですよね。だから『孤独のグルメ』のような名作が生まれたわけだし、『酒場放浪記』や『町中華でやろうぜ』などの人気番組もあるのでしょう。実際、ぼくも、かなり盛り上がって見ていました。
 思わず、過去形で書いてしまいましたが、なぜかコロナ禍の時に見なくなってしまったのです。ぼくは、コロナ禍でも平気で出かけていて、お店などを閉めなきゃいけない状況というのが、どうにも納得がいかない質だったので、コロナ禍でロケが難しくなってしまって、ロケが可能な場合も感染対策を過剰にしているというのが、変に気になってしまい、そうしたことから、だんだん見なくなってしまったのだと思います。各番組、飲食店への応援の意味があったことは充分理解しているつもりなのですが……。
同じような理由から、自分が普段行っていたお店も、感染対策にうるさく、過敏だったところは、行かなくなってしまいました。

 話は変わりますが、今年に入って、アキ・カリウスマキの映画を続けて観ていました。というのも、2017年の『希望のかなた』の時に引退したのを撤回して、新作『枯れ葉』を撮ってくれたからです。
 アキ・カリウスマキは大学生の頃に夢中になって観ていました。その頃は、レンタルビデオ屋に通い、ジム・ジャームッシュ、スパイク・リー、ヴィム・ヴェンダースなどの作品を繰り返し観ていました。ちょうど、そういう(インディーズ映画)のが旬な時期でもあったのでしょう。カラックスが『ポンヌフの恋人』を完成させたり、カサヴェテスがリバイバル上映されたり。(その頃のことをいつか、ここにも書きたいと思っているのですが)
 そうした流れから、「ヘルシンキにも面白い映画を撮る人がいるらしい」と知り、『ラヴィ・ド・ボーエム』から映画館で観たような記憶があります。そこからは過去作はレンタルで、新作は映画館で観てきました。だけど、いつからか、かつての熱はなくなってしました。(くどいですが、このことはいつか書きたいです)
  だけど、今年は久々に「アキ・カリウスマキを観たい!」「観なくては!」と思ったのです。そこでアマプラの中にある作品たち(パラダイスの夕暮れ/真夜中の虹/マッチ工場の少女/浮き雲/過去のない男/街のあかり)を続けて観て、アマプラにない『希望の彼方』は、ツタヤで借りてきました。
そして、『枯れ葉』を映画館で観ました。「いま、アキ・カリウスマキ!」と思っている人はぼくだけではなく、たくさんいたようで、『枯れ葉』はヒット作になり、上映も延長され、新たにイベントなども組まれていましたね。それって、なんか、うれしい。みんなが『枯れ葉』を観ているというのが。

 どの作品を観ても、変っていなくて、というか、ずっと同じで、あたたかくて、悲しくて、おかしい。瞳の奥が、というより、表情の手前で伝わってくる、あの目つきがいい。画の中の隙間はそのまま台詞のリズムにつながっているようで、多くを語らず、ゆったりと言葉が聴こえてくるのもいい。そうしたことは、いま観ても、もちろん良かったのですが、今回改めて観て、気づいたのは、「わんこ」と「レストラン/食卓」の素晴らしさでした。
 子どもの頃から、わんこが好きでしたが、いま、この年になって、わんこのことを思うこと、わんこといることは、『枯れ葉』のチャップリンなのです。そして、『希望のかなた』のレストラン。『枯れ葉』の食卓。それは、行ったことのないお店で、食べたことのないごはんなのですが、なぜか、なつかしく、切ない味がしてくるのです。正直、ぼくは「あそこでは働けないな」と観ていて思うのですが、出てくるみんな、「ダメなことはそのまま、ダメなままでイイよ」と言っているような、独特な距離感、あたたかい感じが、とても大切なものに思えたのです。



 ぼくはこの前のnoteで、ごはんを食べることの難しさを書きましたが、それは食卓をつくることの難しさでもあります。ぼくはいろいろな食卓にいました。家族との食卓。付き合っていた女性との食卓。結婚していたこともあったので、その時の食卓。年齢を重ねていけば、誰かといることは、その人と食卓をつくることになります。もちろん、そういう食卓の大切さ、難しさも考えているのですが、それとはちがう、いろいろな事情から、不思議な食卓に混ざるというのがあります。ごはんを食べるのが難しいと言いながら、むしろ、そうした別のところに紛れていくことで、食卓をつくること、ごはんを食べることをわかっていったように思います。誰かとごはんを食べることの緊張感と、そんなことがどうでも良くなるような瞬間。ぼくは子どもがいないので、親にならないまま、いつもごはんを食べてきたのでしょう。いろいろな事情から、自分が混ざる、紛れる食卓というのは、ぼくにごはんを食べることと、ごはんを食べてもらうことのちがいを教えてくれたのだと思います。というわけで、今回は食卓の詩をふたつ、載せますね。


【詩】#24/2017年の食卓

アスパラがあったはずだよ
トマトのよこに

もうあたためなくてもいいよ
ぼくのおくのほう

雨で洗う
小さな夜だよ
マカロニがひとつ
テーブルの下に落ちている

わかりきっていたことを
話していたはずなのに
いつからか
それは言葉じゃなくなって
終わりから始まってしまう

どうか
ぼくの気持ちに
気づかれませんように

少しでも長く
きみのために
ここにいたいから

*

【詩】#25/2024年の食卓

マヨネーズをいつもよりたくさんつけたけれど
はっきり おいしくなったとは言えない

もう大人なのだから、食べるしかない

あの一行をまるまる削ったけれど
はっきり 良くなったとは言えない

捨てるにはもったいない
そのまま書くしかない

この気持ちを体は理解しているのだろうか
いままで どこでごはんを食べてきたのか
正しさを着替えて
もういちど あたためる

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