だって、必死にふつうな毎日を生きているから

この夏、7月から8月の1ヶ月。
息子は何度目かの入院をしていました。

息子には先天性疾患があり、生まれた直後から今日まで入院、手術、検査を度々経験していて日常的に医療的なケアがあります。
発達もゆっくりで、2歳の今はまだ自分の力で歩くことはできません。

こうやって書くと、か弱い子に思われてしまいそうだけど、伝い歩きで日本一周しそうなくらいスタスタ歩くので私は毎日小さな背中を追いかけています。

プライバシーもあるため、病気の事から離れて
好きなことだけを書いていくつもりでしたが、
息子の成長を感じる中で彼との日常も私の一部であって遠ざけるのも違うな。と思ったこと。
我が家と同じ様な経験をされているお母さんのnoteを読んで、逞しく生きているお子さんの様子が単純に微笑ましかったから。

書きたいタイミングが来たのだと思います。

元気なハイリスク妊婦

地元の小さなクリニックでお腹の赤ちゃんに異常があると分かり、口半開きでぽかーんとしている間に大きな病院を紹介され、胎児専門のお医者さん、助産師さん、時には何十人の研修医や看護実習生に囲まれてあっという間に正産期。
それなりに濃いマタニティライフを送ってきました。

ハイリスク妊婦の中でも私自身は体調万全、子宮頸管長も問題なし。こまめな妊婦検診と検査入院以外は普通に生活していいよと言われていたので食べて(つわりで大したものは入らなかったけど)寝て、働いて、遊んで、当たり前の毎日の繰り返し。
勿論不安もあった。
けれど赤ちゃんのためにも、普通に暮らすことが一番だと信じていました。

忘れられなかった一言

産休に入った夏の早朝。
日課のウォーキングをしていた時でした。
自分の母と同じくらいの年代の女性に、妊婦さん?何ヶ月?と声をかけられて和やかに会話を終えるつもりが

「臨月にしてはお腹小さいわね。」

「まぁ健康に産まれて来れるなら幸せよ。」


と一人で納得して、どこかに行ってしまいました。

何も答えられなかった。

その頃は、ずっと小さく成長している息子の容態が急変しないか毎週検診に通っていて、自治体で貰った補助券はとっくに無くなってしまった。
お腹を蹴る力強い胎動とエコー写真を貰うことが励みになっていました。

『無事に出産までたどり着けば息子の病気を詳しく診てもらえて正しい治療が受けられる。』

そんな希望を持っていたから、あのおばちゃんの【健康に産まれて来れたら幸せ】という言葉なんて、さらっと流してさぁ家に帰ろう!と思うはずだったのに。

その言葉はぐるぐると渦を巻いて私の頭に残っていました。

名前の無い島に辿り着いた日


子猫が鳴く様な声で生まれた息子は、即NICUに運ばれました。
私と夫は初めて聞く病名と何枚もの手術承諾書、NICU、GCU、小児病棟のシステム、医療費の支払い手続き、搾乳、ミルク、必要になる医療ケアの練習…
産まれてからの日々は産褥期の身体に手加減無しに爆弾を落としてきます。

地味ながらも平和で安定した人生を送りたかった。
30年間、地道にコツコツと生きてきたつもりだった。
それなのにこの時の私は、ろくに経験もないまま嵐に巻き込まれた飛行機の操縦桿を任されるパイロットのようなものでしょうか。

このままどこに行ってしまうのだろう。

『こんな頼りないパイロットに試練を与えすぎだろう。』

『こいつ貧弱だから鍛えさせよう!なんて思われたとしたら、試練のレベルと供給量が間違ってる。』

一体どこの誰に向けてなのか。
一生届かない不満を頭に浮かべては毎日泣いて、毎日息子の無事に安堵して、また泣いてを繰り返して2ヶ月が経った頃。

ついに退院が決まり、貧弱パイロットが操縦する飛行機は名前の無い小さな島に着陸しました。

これから何が起きるのか分からない。
息子がお腹を空かしているから、まずはミルクをあげないと。


半目の記念写真と今思うこと

息子が退院した晩、自宅の部屋の隅で家族三人はじめての記念写真を撮りました。

記念すべき日の写真なのに息子の顔は泣いてクシャクシャ。
私は寝不足と疲れで半目状態。
何故か夫だけが写りが良くて納得がいかない。

この写真は未だ誰にも見せずにスマホのフォルダに大切にしまっています。

この日からもうすぐ2年。
1度で終わると思ってた手術も何回かあった。
それなりに入院も経験したし、そんなの聞いてないよ!なんて何回思ったことか。

無事に手術が終わることを願い。
術後の回復を願い。 
医学の発展を願い。

奇跡的に治癒しました!なんて、あり得ない奇跡まで何度も想像して。
親って無力だと繰り返し考えました。

そんな弱気な私の手を引く様に、息子は息子なりの成長の階段をマイペースに進んでいきます。
「ぼんやりしてたらまた半目になっちゃうよ。ちゃんと付いてきてよ!」
と言わんばかりに。

あの日のおばちゃんの言葉に答えが出せなかったのは私も似たような言葉を聞いて育ち、似た様な価値観で生きてきたからだと思います。

息子を産んで一緒に生活してようやく気がつきました。

そもそも、一部の側面しか知らない赤の他人が人の幸せを勝手に決めつけるのは違う。

たしかに辛い時はある。
病気がなければ知らなくていいこと必要の無いものだってある。
でも息子と暮らす毎日はたくさんの幸せを運んできてくれた。


それは息子が病気だからじゃなく、私たち夫婦の大切な息子だから。


世間では未だに出産方法で論争が度々勃発して母乳神話、自然育児、子供一人産み育てるのに色んなスタイルがあります。
しかし、皆が皆当たり前に選べられる状況ではないという事も知りました。

今日も明日も小さな命の灯火が消え無い様に、必死に生きている家族がいて昼夜を問わず必死に患者に向き合う医療関係者の方々。

皆、ふつうの日々を守るために一生懸命だ。


幸せか不幸かフダをあげて下さいどうぞ!なんて簡単に決められるほど人生は軽くない。


「障がいがあるけどそのおかげで家族の絆が深まったでしょう。」

「辛いけど痛みを知ってる子は強く優しい子になるよ。」

たまに言われてモヤモヤとした言葉。

健康だろうが病気だろうが仲の良さに関係ないです。ずっと仲良しです!と思う。

困難にぶつかったときに支えてくれる人や、きっかけを与えてくれる存在があるから人は成長するわけであって、勝手に強く優しい子に育つ訳じゃ無い。

何でも病気や障がいに結びつけるのはやめてくれと私は思います。

毎日は続くから

この先息子が私の手を必要とせず歩けるようになり、成長した先に壁にぶつかる時が来ると思っています。

私の言葉は届かないかもしれない。
この体で産んだことも恨まれるかもしれない。
教科書のように正しい答えは無くて、ただ親として向き合うことから逃げず待つしか無いんだろうか。
真夜中に、まだ見えない将来を考えて悶々とする日も少なくはありません。

それでも朝がきたらまた新しい一日がはじまる。

「今日は何をして遊ぼうかな。」 
「オムツそろそろ補充した方がいいかな。」
「あの公園そろそろ金木犀が咲くかな。」
「次の診察、何時からだっけ。」
「まずは、ご飯の準備をしないと。」

今日もこれからも、食べて、寝て、遊んで必死に生きる日々は、他の何にも変え難いほど大切な私たちの人生です。

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