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真空パックで保存して。

ふと、なぜわたしは文を書くのかなと考えた。

ひとそれぞれ違うのだろうけれど、私の場合は「思考を鮮明に保存しておくことができるから」な気がする。

みなさんの脳内がどんなふうに動いているのか、自分と同じ感覚で理解することはおそらく一生できないが、少なくともわたしの脳内は考えていることがくるくると切り替わりやすい(別名:集中力がない、注意散漫)。

だから自分が考えていたことなんて、すぐに忘れてしまうのだ。

歩いているときや旅行しているとき、何か仕事の作業をしているときや家事をしているとき。「何考えてた?」「いや、ぼーっとしてて何も考えてなかった」ってときですら、本当に“無”だったのかというとそうではなくて、脳内では何かしら、を考えている。

でも忘れっぽいから、大部分の思考は、垂れ流し。たぶん、そうやってぽろぽろと脳内からこぼれおちてゆく思考回路の断片を、ちょっとでもつかみとって、記録しておきたいのかな、と思う。

*  *  *

特にわかりやすいのは、旅行記。

旅をしていると、感動することがあったりトラブルがあったり、人との触れ合いで心が温まったりと数多くのイベントに接する。そりゃあ脳内も活発に動き、普段以上にいろいろなことを考える。

でも、忘れるのは簡単。

もちろん、「楽しかった」「こんなことがあって大変だった」「ここの景色がきれいだった」という思い出は残るだろう。

けれど、そこでこんなことに感動した、こんなことを考えていた、という詳細な脳内の動きは、記憶が鮮明なうちに書き留めておかないと、同じ精度では二度と再現できない、と個人的には思っている。

実際、数年後にそれを読み返して、ああそうか、このときこんなことを考えていたのかぁと、新鮮な驚きをもって発見するのだ。

*  *  *

じゃあ文に書けば思考は完璧に保存できるのかというと、残念ながらそうでもない。むしろ、文章にまとめることで受けるデメリットもあるくらいだ。

それは、紡がれた文にしばられる、ということ。

そもそも文章化するといっても、すべてのできごとを同じ精度で記録するわけじゃない。

旅の話でいえば、もちろん、より印象的だったできごとは克明に描かれ、とれたてピチピチを真空パックしたような状態でその記憶を保存できる。

けれどとるにたらない(と当時は思っている)、ささいな街の空気感や匂い、人の気配や生活感、空の広さ、床の冷たさ、そういったありふれたものは、無意識のうちにざるの網目からサラサラとこぼれ落ちてしまう。

そして次第に、忘れられてゆく。

だが偶然、再訪する機会があると気づくのだ。あれ?! 私、当時の脳内を真空パック保存したつもりでいたのに、あんなことも、こんなことも忘れていたじゃないか、と。何を記録した気になっていたんだろう、と。

よくも悪くも、一度文にすると、もう、その話はその形で完成してしまう。それ以上でもそれ以下でもなくなってしまう。保存前にざるからサラサラ抜け落ちていることなんて忘れて、完璧に保存したような気になってしまう。

ほんとうは、完璧な保存なんてできない。

*  *  *

でも、そうと知っていても、やっぱり文を書くことはおもしろい。

いつだってくるくると、わたしの脳内は脈絡無視でめまぐるしくかわり、「あ、それつかんでおきたい!」と思っても、別の仕事を少しやっているとするする〜と跡形もなく逃げてしまっていたりする。

そこをおいかけて、「ああ、ちょっと待ってよ」と自分で自分の脳内にお願いしながら、きょうもパチパチと文をつづる。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。