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地方から、海外のオフィスワーカーを経て、世界一周。そして東京の外資企業へ【ワーホリ、その後 #010】

「英語で自己紹介してって言われて。ほんとうに最初は“マイ・ネーム・イズ・マミ”しか言えなくて。それだけ言って、座ったもん」

からっとした表情で笑いながら、そう当時を振り返る。

29歳のころ、英語での自己紹介は“マイ・ネーム・イズ・マミ”しか言えなかったという彼女。だがその半年後には、オーストラリアの現地企業に就職し、“日本人は自分だけ”という英語環境で、1年半ほど働くことになる。

さらにはそこで貯めた資金を元手に、1年半にわたる世界一周の旅へ。現在は帰国し、東京・六本木のとある企業で働いている。

そんなアクティブさを持ちながら、熱量高くグイグイ来るタイプでは決してない。あくまでさらっと、自然体。

世界一周の話も「いや、まったくすごくないから。ほんっとに、誰でもできると思うし」と、肩の力を抜いたトーンでまじめに言う。

でも話していると、その自然体の中にも、芯の強さや、自分への厳しさが垣間見えたりもする。

……たぶん自分では、気づいていないと思うけれど。

実はそんなマミさんの存在も、わたしが『ワーホリ、その後』というインタビューシリーズを始めたきっかけのひとつだった。

日本で「ワーホリ? ああ、遊んでるやつね」という反応に出会うたび、いやいや、いろんな形があるんですよ、たとえばワーホリを機に、現地企業のオフィスワーカーとしてバリバリ働くようなひともいるんですよ、と心底紹介したくなった。

数年前は、諸事情で実現しなかったマミさんへのインタビュー。

けれど去年、これまで他の方に実施したインタビューを読んでくれ、「自分のストーリーはどんなふうに見えるんだろう」と興味をもってくれたことがきっかけで、インタビューを快諾してくれた。

時を越えて実現したインタビューが、とても嬉しい。

忙しい合間、貴重なランチタイムに都内のカフェに集合し、話を聞く。

変わらず彼女はどんどん動きつづけていて、新しいチャレンジもはじめていて、時間が全然足りなかった。

■PROFILE:マミ
石川県出身。大学卒業後、ゼネコンに就職し現場監督や大型遊具の設計などを経験。29歳でフィジーへ語学留学、半年後にオーストラリアでワーキングホリデー。デザイン・設計の経験を活かし現地企業へ就職し、ビジネスビザを取得。その後1年半かけて世界一周の旅を経て帰国。現在は東京都内の会社に勤務。新たに二輪免許を取得し、休日は夫とのツーリングを楽しむ
■『ワーホリ、その後』シリーズとは?
“ワーホリ”とひとくちに言っても、その内容は千差万別。ワーホリって実際どんなことができる? その後は、どんな人生を送っている? そんな疑問に答えるべく、海外生活を機に「その後自分らしく人生を楽しんでいる」ひとをたずね、話を聞くインタビュー。【バックナンバーはこちら


■ 地方の片隅から、世界へ

大学卒業後、出身の石川県からほど近い、富山の建設会社で働いていたというマミさん。一級建築士の資格を取得し、大型遊具の設計やデザインにと、仕事にはげむ20代を過ごしていた。

仕事にやりがいも感じられる、安定した生活。そんな日々、海外へ行こうと思ったきっかけは何だったのだろう。

「仕事がすごく好きで、気づいたら28歳になってたんだよね。それまでは一級建築士の資格をとりたくてがんばっていたんだけど、27歳のときに資格がとれて。それでふと『このまま20代が終わって30年働いたら、もう定年じゃん』と思ったら、それは嫌だなと。なんかこのまま、人生終わりたくないというか」

——“仕事は好きだった”中で、どうしてそう思ったの?

「仕事は楽しかったけど、これ“だけ”の人生は嫌だなと思った。まだやったことのないことを、やってみたいなって。たぶん、大学を卒業してからそのときまでは、いわゆる“社会のレール”に乗って生きてきたんだよね。ふつうに就職活動して、安定的なゼネコンに入って。会社を辞めるとか、考えられない社会で」

当時働いていた会社の離職率はとても低く、会社を辞めるひとはほとんどいなかった。実際、マミさんがその会社を辞めてから7年ほど経つが、彼女の退職以降、新たに辞めたひとはいないという。

「それくらい、地元が保守的で。終身雇用制度がまだすごく息づいているし、“女性がお茶を淹れるべき”だし、“朝は女性が先に行って掃除するべき”だし……っていう、ほんとうに昔ながらの会社だったのね。だから、ひとも仕事もよかったんだけど、『世界ってここだけなのかな?』とは思っていたな。ずっと」

当時も出張で東京へ行くことはあり、地方と東京の違いを肌で感じたりもしていたそうだ。

「でも、そのときの上司もすごくいいひとでね。日本で一番のことをしたいんだったら東京に行ったほうがいい、って言ってくれてたりもしていた」

——じゃあ、「他の世界をみてみたい」を叶えるなら、東京で働くのもひとつの選択肢だったのかも。「海外」を選んだのはどうしてだろう?

「東京で働きたいなって思いはずっとあった。でもそのとき、まさかの29歳まで独身だったからさ。じゃあせっかく独身なら、今のうちにしてみたいこと何だろう?と考えたら、海外、行ってみたいなあって」

もともと海外に興味があったの?と聞いたら、「いや、全然」と笑う。

“新しいことがしてみたい”。

ただその気持ちに押されるようにして、彼女いわく「たまたま」、外国への一歩を踏み出した。


■ 価値観の違いに打ちのめされた

海外行きのスタートを、フィジーでの語学留学にしたのはどうしてだろう。

「たしか『留学 安い 南国』とかで検索して。石川は雨が多いから、とにかく晴れてる国に行きたかった。なんか、気分も明るくなるし」

そして、赤道直下のフィジーへ飛んだ。

あまり知られていないけれど、フィジーという国ではフィジー人とインド人が6:4くらいの割合で暮らしている。だから、それぞれのコミュニティ内では母国語のフィジー語とヒンドゥー語が使われつつも、社会では双方の共通語として、英語が一般的に使われているのだ。

マミのホームステイ先も、最初の3ヵ月はフィジー系の家庭、後半3ヵ月はインド系の家庭だったという。フィジーでの暮らしを通じて、一番印象的だったことって何?と聞いたら、こんな答えが返ってきた。

今までの価値観ってなんだったんだろう、ってけっこう打ちのめされた感があったかな。日本では大事だと思ってた『お金』とかって、全然大事じゃないんだなとか。なんか、日本人が大事だと思っていることを気にしない国柄だったから」

——たとえば?

「たとえば、『友だちがごはんないんだって』って言ったら、その子のごはんも毎日毎日、何も言わなくても用意してくれたりとか。インド系の家庭はムスリムだったから、『もしあなたがおにぎりを2個持ってたら、必ず1個は、持っていない隣のひとにあげなさい』みたいな教えだったんだよね。

それ聞いたとき、けっこう衝撃で。そういう、分け合う精神というか、人に与えることが当たり前、みたいな考え方がすごく浸透していたから。お金も、自分で貯め込むものじゃなくて、ある人がない人にあげるものなんだよ、って。日本人は世界の中でもすごく寄付額が低いって言われるけど、やっぱりそのあたりはすごく違いを感じて」

——「どこの企業に勤めてるの?」「どのエリアに住んでいるの?」「住んでいるのは駅のこっち側?それともあっち側?」”——

日本に帰って東京で働き始めたとき、そんなステータスの張り合いみたいな会話に、衝撃を受けたというマミさん。

日々生きるなかで、何を大事にしているのか。その根本が大きく違った。

「今はまた、自分も日本の価値観の中にいて。少なからずそういうステータスの張り合いを聞いて、劣等感とか優越感を持っちゃったりもしてさ。だけどフィジーでは、そういう、日本で大切だと思われているものが全部、サーッ!て雑巾で掃除されたみたいだった。ああ、全部いらないものだったんだって(笑)。それで残ったのが、ほんとうに大事な自分の気持ちだけだった。なんかあのときは、人間として生きていくのが楽だった」

自分がそれまで組み上げていたもの、とらわれていると思っていたもの。

その壁が一度ガラガラと崩れて、周りの景色がサーッと見渡せるようになる。そのイメージは、外国で生活したことのあるひとには覚えがあるんじゃないだろうか。大学名も会社名も役職名もなく、何の経歴もないハダカの自分が「ぽんっ」ってそこに浮かぶようなイメージ。

「いらないものがほんとうに、いらなくなったというか。何をそんな大切に抱え込んでいたの?みたいな感じ。勝手に、自分で作り上げてた虚像みたいなものが全部壊れた。それが一番、印象に残ってる」


■ シェアメイトの、忘れられない言葉

そんなフィジーで半年間を過ごし、そのままオーストラリアへワーキングホリデービザで渡った。

——すぐに帰国せず、ワーホリという選択肢をとった背景は?

「働くのはもともと好きだったから、6ヵ月も働いてないと、じんわり働きたくなってきて(笑)。せっかくなら外国で働いてみたかった。外国に行くからには、日本人同士でつるむんじゃなくて、絶対に現地の会社で、外国人にだけ囲まれて働こう、というのを目標にしてた」

そんな気持ちを胸にシドニーへ入り、最初はシティのど真ん中のマンションでシェアルームを開始。

「ドイツ人ふたりと同じ部屋だったんだけど、ほんとに仲が良くて。そのひとりに言われたことが衝撃で、わたしの現地企業での就職が決まったんだよね」

そのドイツ人のシェアメイトは英語も流暢で、時給の高い現地企業の仕事を見つけて働いていた。マミさんもそんな仕事に憧れていたが、すぐには見つからず、初めは日本食レストランと現地のカフェ、2つのバイトを掛け持ちしながら週7で働いていたそうだ。

“こんなことがしたいんじゃないのに……”。

そんなモヤモヤを抱え、現地のオフィスワークを見つけようと派遣会社に電話してみるが、つたない英語に「もっと英語が話せるひとからかけてくれる?」と言われて電話を切られた。派遣会社まで直接足を運んでみたこともあったけれど、門前払い。

「それでそのシェアメイトに、どうやって就職活動したらいいんだろう?って相談して。その子は英語もすごく話せるから、『やっぱり語学力の問題なのかな』と言ったら『それは違うよ、マミ』と言われて。『あきらめていないだけだよ、見つかるまで』って」

聞けば、そのシェアメイトも仕事を見つけるまでは大変な思いをしていた。

「シェアメイトも、実はその仕事を見つけるまで、ずっとレストランのアルバイトをしながら、毎日毎日、何件も電話をしていたんだよね。それで2ヵ月くらいかけて、やっとその仕事を見つけたんだよ、って言われて。でもそのとき、まだ自分は1ヵ月もやっていなくて」

朝起きて、午前中に企業へアプローチする電話をして、午後からはカフェで働いて、夜は日本食レストランで仕事……。そんな毎日に疲れ、1ヵ月も経たずに後ろ向きになっていた、と振り返る。

「でも、そのシェアメイトは、容姿だって自分よりオーストラリア人に近くて、英語も自分よりよほどできるのに、2ヵ月間あきらめずに動き続けたから仕事が見つかったんだ、と知って。頭をガーンって殴られたくらいの衝撃だった」

その話を聞いた翌日から、アルバイトの傍ら、毎日何件も企業へ電話をした。並行して、gumtreeという現地の掲示板サイトに、自分のスキルやポートフォリオを掲載して、仕事募集もした。そこに載せる英語は、シェアメイトに添削してもらった。

「そしたら、その掲示板サイト経由で、ある日、会社のボスから電話がかかってきたんだよね。『明日面接来れる?』って」

最終的には、企業側からのオファーを受けとった。オーストラリアに来てから、まだ1ヵ月しか経っていなかった。


■ 飲み会はビール2杯でパッと解散!

就業先となったのは、現地のとあるメーカー。会社のカタログ制作やWebの更新、名刺の作成から図面を描く仕事まで、範囲広く手を動かせるインナーデザイナーを探していたという。

「たまたまそれが、自分が日本の会社でやっていたこととかなり近くて。偶然だったんだけどね。ラッキーだった

そう彼女は言うけれど、でもそれも、自分で起こしたアクションが呼んだ縁。シェアメイトが言うように「あきらめなかった」からなんだろう。

——憧れていた現地企業にオフィスワーカーとして入ってみて、実際どうだった?

「ほんとうに楽しかった。30〜40人くらいの会社だったんだけど、同じ国籍のひとがほぼいないくらい、移民が多くて。日本人は自分だけだったけど、ワーホリの人は他にもいたし、黒人も白人も、アジア人もみんないて。その環境で働いているのが、すごく楽しかった」

——楽しそう。その環境ならでは、みたいなことってあっただろうか。

「みんな外国人ノリだから、仕事は夕方17時までなんだけど、17時05分には誰もいない。17時10分までいると、『カギ締めるから早く出てよ!』みたいな」

——たしかに、それは日本とは結構違う感覚かも。

「日本と違うといえば、飲み会も、ビール2杯ほどパパッと飲んだら帰る、みたいな感じなんだよね。だからクリスマスとかも、会社でプレゼント交換して飲みに行くんだけど、2杯くらい飲んだら『じゃ、家族のもとに帰ろう』みたいな。そういう付き合い方も、新鮮でいいなって」

——家族を大切にしつつ、仕事場の付き合いがゼロってわけでもなくて、2杯は酌み交わすなんて、なんていうか、バランスいいなあ。

「でも、すごい離職率だったけどね。ワーホリのひとが多かったのもあるし、上司も気分屋で。書いたものを持っていっても、機嫌が悪かったらそのまま破り捨てられて『やり直し!』とか(笑)。初日に来て、昼食べに行って、帰って来なかった子もいたな。3ヵ月以内に、けっこうな人数がやめていく……(笑)」

そんな中、彼女は会社経由でビジネスビザを取得し、1年半もそこで働くことになる。最後には、長い方から数えて4番目とか5番目になっていたそうだ。

「自分はそれが夢だったからね。たとえ怒鳴られても。もちろん、楽しいことも多かったしさ」

またなんでもないような顔で、そんなことを、からっと笑って言う。


■ 英語力より、大切なことは

ちなみに、その半年前には「マイ・ネーム・イズ・マミ」だった英語力は、そのときにはもう大丈夫だったんだろうか。

「英語は、まあ問題ないレベル……ではなかったね(笑)。ボスもそれを見抜いてて、『今日はマミ、これやって、こうしてね』って言ったあとに、『はい、今の指示を繰り返して』って言われる……みたいなテストが、わたしだけあったし(笑)。わたしだけ、英語できないから」

——いや、でも、毎日がそれで、心が折れないのがすごい。

「いやいや。毎日心折れそうだったんだけど、当時のシェアメイト、マレーシアと韓国の子に助けられてた。家に帰って『はあ……』ってため息ついてたら、とんとんって肩たたいて、“I'm ready”(もう今日の愚痴聞く準備できてるよ)って言ってくれるような子たちだったの」

——ああ、いいねえ。

「みんな英語が母国語じゃないから、その子たちの英語はわかるんだよね。それにみんなそれぞれ、苦労していて。だから旅行いっても話がつきないし、いつも夜中までしゃべってて。そのときの絆が今でもある。年も結構違うんだけどね。その子たちのおかげで、頑張れた」

——なるほどなあ。

「あとは、逃げて辞めるのは絶対にしないと思ってたから。ここを辞めるときは、次にやりたいことが見つかったときにしよう、って思ってた。それに、つらいときはあったけど、楽しい日のほうがもちろん多かったよ」

——夢がかなったんだもんね。

「そうそう。国籍がバラバラなみんなでわいわい話して、じゃあこれこうしよう、ああしようって言って決まっていくときとか、なんかすごく、思い描いていたところに自分がいるなあって嬉しくて。それに自分は、デザインの仕事だから、そこまで流暢にしゃべれなくても、みんなの言ってることさえわかれば、あとはできたものを見せる、ということができたから」

——それは大きいよね。やっぱり、しゃべれないとどうしても最初は馬鹿にされやすいけど、言葉を超えるアウトプットがあると、一目置かれるし。

「そうそう、それはすごくラッキーだった。たまたま、自分の職業だったからさ」

またそんなふうにサラッと言うけれど、その運だって、20代、日本でがむしゃらに働いていたマミさんの積み重ねが土台になっているもの。

運も実力のうちとは、よくいったものだ。


■ 「日本ってむしろ、ユニークだよ?」

夢だった環境で一生懸命に働く中、次に動き出そうと思ったきっかけはなんだったのだろう?

「ビジネスビザを出してくれたタイミングで、『あと2年働いたら、永住権もとれるよ』って言われて。そのとき初めて“わたし、永住したいのかな?”って疑問を抱いて。それまでは毎日、いまを生きることに必死過ぎて、先が見えてなかったんだよね、次の週さえも(笑)」

そうしてふと立ち止まって考えてみて、初めて「ああ、自分の歴史ってここに一個もないんだ」と思った。家族や、昔からの親友もいなければ、自分が卒業した学校もない。それにはたと気がついて、寂しさを覚えた。

「それまでは必死過ぎて、寂しいことに気づけなかった。でも気づいたら、一生ここに住むのは、わたしにはないかな、と思ったんだよね」

当時は英語力をあげようと、日本語のものを意識的に遠ざける生活をしていた。でも、寂しさに気づくとふいに日本語が読みたくなった。そうしていろいろと読んでいるうち、世界一周している日本人のブログにたどり着く。

「チベットのラルガルンゴンパっていう村を紹介している写真が、すごく印象的で。ああ、ここ行ってみたいな、世界一周とかあるんだな、楽しそうたな、って思ったんだよね」

↑実際にマミさんがラルガルンゴンパ(中国・チベット自治区)を訪れて撮った1枚。僧侶だけで成り立つ村で、家も着物も鞄もすべてこの朱色で統一され、結婚も許されておらず、朝から晩までお祈りだけをしているという

そんなタイミングで、マミさんを世界一周へと動かした背景は、実はもうひとつあった。

「当時、わざわざ日本のお客さんがうちの会社まで、商品を買いに来たことがあって。そのとき、日本人のお客さんは事前にメールで、『このボタンは壊れたらどうするんですか』、『◯◯の場合はどうなりますか』って、たくさんの質問を送ってきていて。……っていうのが、会社にとっては初の出来事だったらしくて(笑)」

——おお。そうなんだ?

『お前の国ってどうなってるの?』みたいなこと言われて(笑)。『これってまだ起きていないことなのに、今、この質問が来るわけ?』って」

——ああ、なるほど……(笑)。たしかに、その細かさは日本的なのかも。

「わたしの中では日本のお客さんの感覚もわかるから、え、それっておかしいの?って聞いて、同僚といろいろ話して。その中で、『日本ってむしろユニークだよ(※ “unique”=独特の/まれな、というニュアンス)』って言われたんだよね。世界各国の中でも、日本と、ついで韓国ぐらいじゃない?あんなまれな国、みたいなことを言われて」

日本は、世界の中でもまれな国。

そう言われたことで、「他の世界を見てみたい」という気持ちが高まったというマミさん。先のブログを読んでいたタイミングとも重なり、「世界一周をしよう」と決めた。

「ちょっと他の国、見に行ってみよう、と思って。日本に帰るとも帰らないとも決めず、“明日から、東へ”、みたいな(笑)

出発前、ブラジルに1日目の宿だけをとって、飛行機に乗った。


■ 世界一周、そして東京へ

↑ウユニ塩湖にて(マミさん撮影)

“明日から、東へ”。

その言葉どおり、心の赴くままに世界を旅した。

オーストラリアから南米へ飛び、中米を経由して、ヨーロッパへ。ヨーロッパからインドへ渡り、アジア諸国へ。そこからなぜか西へ戻ってアフリカに飛び、最後は中東のイランなどをめぐった。

「全然プランニングしてなくて。次に行きたいと思ったところに行ってたから、うまく一方向で回れてないんだよね(笑)。今考えれば、下調べすればもっと便利だったんだと思うけど、当時は気づかなかった。オーストラリアを出るときに1日目の宿だけとっていったんだけど、行ってみたらそれも、ブラジルのスラム街にある宿だったりして」

——世界一周の旅だけでも1冊本を書けそうなくらいだと思うけれど、いま、一番思い出すことってなんだろう。

「すっごく印象に残ることは、ほんとうにいっぱいあったんだけど。毎日、新しいことをしているっていう状態が、1年半続いてたから。だからその1日1日の感覚が、もしかしたら一番印象的かもしれない。帰ってきてからもしばらくは、『あの日、どこで何食べたな』まで思い出せるくらい、ものすごく1日1日が密度濃くて」

そういう感覚は、仕事をしているときはなかったな、とマミさんは言う。“これって先週だっけ、それとも先々週だっけ?”、そんなことはまるでない、1日1日がくっきりと違う色を持つ日々。

「毎日移動しているし、違うものを見ているし、明日の行動を今日の自分が決めているから。そういう意味ではすごく、1日1日が記憶に残ってる1年半だった」

旅の終わりは、「日本に帰ろう」と思ったのではなく、「あ、次は東京で仕事しよう」という感覚だったのだそうだ。前回同様、1年半仕事をしていないうちにじわじわ働きたくなってきて、次に働くなら広告関連の業界で、東京で働きたいと考えていたから。

「だから、帰国って感覚よりも、世界一周でやりたいこと終わったから、さあ次は東京だ!みたいな感じで帰ってきたんだよね。そしたら、ここ六本木が、それまでのどこよりも、カルチャーショックだった(笑)。え? ここ同じ日本なの? 自分の地元の石川と、みたいな」

——へえ! たとえば?

「たとえば、飲食店とかコンビニの店員さんはみんな外国人だったりとか。レストランに入ったら、日本人が自分だけで、周りは全部英語だったりとか。あとは、職が変わったのも大きいけど、新入社員として入ってくるひとの毛質がぜんぜん違うとか。

だから今は、よく言われるような“日本人って英語しゃべれないよね”みたいな意識はもうなくなっちゃってる。たまに石川に帰ると、よくも悪くも、いろんな感覚のギャップは感じるかなあ」


■ 外資系企業ではたらく、充実の日々

帰国してからは、外資系のイベント会社で働いてるというマミさん。具体的には、展示会で出すブースの企画やデザイン、運営などを担当しているそうだ。イベントで海外出張へ行く機会も多いという。

——その会社を選んだのはどうして?

「うーん、おもしろそうって思ったからかな? イベントを、日本国内だけじゃなくて海外でもやるところとか、日系企業も外資系企業も扱ってるとことか。あとは、面接のときもすごく、ああここの会社いいなって思った」

どんなところが?と聴いてみると、「話しててお互いに楽しかった」と振り返る。

「外資系の会社をいろいろ受けていると、働くのが大変そうだな、と感じるところも多かったんだけど。いまの会社はすごくライフワークバランスを大事にしてたんだよね。それを面接でも言われたし、なにもなければ定時で帰る、ってはっきり言われたのもよかったし、既婚率もすごく高いし。なんか前ほど一生懸命、仕事だけに時間を使おうと思ってなかったから。

だからライフワークバランスがしっかりしてる会社で働きたいなと思ったのと、あとはやっぱり、面接が楽しく話せるってけっこう大事かなって」

世界一周から帰国して、わずか2週間で、その会社で働くことが決まった。

「やっぱりご縁かなと思って。どうぞよろしくおねがいします、って感じだった。面接の結果とかもその日にくれて。あ、いい会社だなと思って」


■ 新しいことには、サクッと飛び込む

——海外経験を経て、今の仕事につながってると思うことはあるだろうか。たとえば、今の仕事でも英語を使ったりしている?

「うん、英語は使ってるよ。日系企業のお客さんが海外でイベントすることもあれば、海外企業のお客さんが日本でイベントするときもあるし、そういうときの会議や資料には英語が使われたりするね。

あと、うちの会社はいろんな国に支店があるから、プロジェクトが始まっても、準備段階ではメールと電話でやりとりして、本番近くなって初めて現地で顔合わせ!ということも多くて。外国の人ははっきり意見を言うから、電話では正直”ちょっと怖いな”と思う人もいるんだけど、実際会ってみるとすごく気さくで楽しい人だったりするんだよね。打ち上げにいくと、みんなノリノリで、音楽に合わせて踊り出したりとか(笑)

日本人と外国人と、明確な境目があるわけじゃないけど、そうやって違いを感じながらどちらとも仕事できるのは楽しいなって感じるし、それができるようになったのは海外で働いた経験があったからかな、と思う」

——ほかにも、海外経験が今の自分に活かされていると思うことはある?

「あとは仕事にというか、自分の考え方が全般的に変わったかなと思ってる。全部のことが、『なんとでもなる』と思うようになった。昔はそこまで思ってなかったから。

もとからすごく全力疾走するのが好きなんだけど、いまのほうが肩の力が抜けているというか。前はすごく、いいことばっかり追い求めてたけど。でも今は、悪いことも、べつに良くない? 生きてさえいれば、って。そう思ってるから、仕事が楽になったかも。仕事に対する自分のスタンスがいちばん変わった気がする」

——仕事へのスタンスというのは、たとえば?

「昔は人生をもっと仕事に捧げていたけど、いまは、自分の人生の一部というか。それが楽しいからやってるけど、楽しくなくなってしまったら辞める道だってあるんだし、という感覚になって、楽になったかな。最初の会社は辞めるとき、清水の舞台から飛び降ります!みたいな緊張感だったから。そこはすごく、意識が変わったと思う」

——ちなみに、海外、仕事に対するスタンスとかって、日本で働きつづけていても、年齢的なものもあるかなと思うんだけど。

「そうそう、仕事のスタンスが変わってくるのって、たしかに年齢的なものもあるよね。べつに海外行ってなくても、意外と肩の力は、年とともに抜けていくもんのなのかもなとは思う。行かなかった自分と比べられないから、わからないけど。

でもそれ以外に、「新しいことをやってみよう」みたいなのは海外での生活を通してすごく増えたと思う。せっかく人生1回きりだから、帰国後もバイク始めてみようとか、習い事はじめてみようとか。やってみるまでのフットワークの軽さは、培われたかな」

——たしかに、「やってみたら開ける」みたいな感覚を味わうことは、ワーホリ生活では多いかもしれない。とりあえず飛び込んでみたら、知らなかった世界がバッ!て広がる感じが、いろんなところで起きるというか。「やりたいけどどうしよう……」っていう迷いはないというか……。

あ、それはない。『やりたいけどどうしよう』はないね。旅行に行ったのもそうだし、出会ったひとたちもそうだし。ある方向に気持ちが向くと、それに関係する本を読むようになったりとか、関係するひとと出会うようになるから。どんどんそれはなくなってるかな。やってみようか悩む時間って、なにも生み出してないから」

——とりあえずかじってみて、向いてなかったら辞めればいいか、っていうのはあるよね。

「すごいある。やらないと、わからないから。やらないことに悩みたくないし」

スパッと言い切ってくれるその感じ、とても爽快だ。


■ いいことも悪いことも、楽しみたい

——これから、どんなふうに生きていきたい?

そう訪ねたら、一瞬の間の後に、とてもシンプルな答えが返ってきた。

「楽しく、笑顔で生きていきたい」

——その心は。

「オーストラリアで働いていたときのボスに、『“何が起きるか“が問題じゃなくて“どう受け止めるか”が問題なんだよ』って言われたことがあって。

『とくに女性は、その受け止め方で悲観的になりすぎるんだよ』って。『問題はあるんじゃなくて、作り上げてるんだよ』って。それを聞いたとき、あ、ごもっともかもな、って思ったんだよね」

——ああ、なるほどなあ。それはほんとうに、そうかも。

「なんていうか、『その問題があるってわかるのって、今生きとるおかげよね〜ラッキー!』くらいに思えたらいいのかなって。いいことも悪いことも、何があっても楽しみたいというか。ほんと、受け止め方ひとつなんだなあと思うこと、いっぱいあるから。ちょっとポジティブ過ぎるくらいポジティブな生き方で、いいんじゃないかなって(笑)」

いいことも、悪いことも。

たんたんと語るマミさんの、いい意味での平熱感、落ち着いた受け止め力の背景が、ちょっとだけ垣間見えた気がした。


■ まずやってみて、また考える

——いまワーホリ中だったり、これからワーホリ行こうか迷ってるようなひとに、伝えたいことってあるだろうか。

「え、やろうと思ったらとにかくやってから考えてみてほしい

——なるほど、さっきの話から筋が通ってる(笑)。じゃあ実際、いまやってみているひとで、この先、帰るのか帰らないか、みたいなひとだったら?

「わたしの場合はさ、帰るか帰らないか悩んだとき、悩むくらいなら、とにかく気がすむまでいようかなって思ったんだよね。気がすむまでやってみたら、自然と、次にどうしたくなるか見えてくるというか」

——ああ、そうか。一個をやりつづけて、違う、って思ったら違う方向だし、やっぱり好きだ、ならそのままでいればいいしねえ。それはあるかも。

「うんうん。それでもちょっと帰りたいと思うなら、別にいったん帰国すればいいし。それで『やっぱり違ったわ』と思ったら、また行ったらいいんじゃない?って」

ああ、そうだ、そうだった。

ほんとうはこのくらいフットワーク軽く、生きていいはずだった。

旅先でのあの感覚、わたしはすっかりにぶってしまっているなあ。どおりで日常のいろんなことも、必要以上に難しく考えようとしてしまうはずだ。

結婚したからとか、親になったからという環境の変化はたしかにあるけれど、それもきっと、かつて自分が足かせだと思っていたことが虚像に過ぎなかったみたいに、自分の気持ちを優先できないという「思い込み」に過ぎないのかもしれない。

受け止め方、ひとつ。ほんとうにそうだよなあ。

直感に、シンプルであれ。

ひさびさにあのころのすがすがしい気持ちを思い出して、わたしは六本木をあとにした。

(おわり)

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