朝日にむかって礼拝をするおじさん
朝食後、ぐずる娘を抱っこして、外の景色でも見せようとレースのカーテンを開けた。
わが家はマンションの3階。なにげなく見おろすと、隣接する駐車場でワイシャツに黒ネクタイ姿、白髪交じりのおじさんが歩いているのを見つけた。
「ほら、だれか歩いてるよ! どこに行くのかなあ?」。娘の興味をひいて気分を変えようと、窓ガラス越しにおじさんを指さしながら話しかける。
おじさんは1台の車に近づいた。どうやらこれから乗り込んで、出発するらしい。
運転席のドアを開けるおじさん。そのまま乗り込むかと思いきや、おじさんはドアを開けたまま、そのドアを背にするかたちで、くるりと斜めうしろをむいた。
そして突然、深々と、お辞儀をしたのである。
ゆっくりと、つづけて3回。ていねいなお辞儀だった。
何の前触れもない行動に、娘を抱いてゆらゆら揺れながら、内心ちょっとおどろく。その方角に、お世話になった方でもいるのかしら。一瞬そんなふうに思う。けれどおじさんの視線をみていて、もしかしてと気づいた。
おじさんは、朝日にむかってお辞儀をしているのではないか。おじさんが見上げる先には、のぼって間もない朝日がまぶしく輝いていた。
そんなふうに想像しながら見ていると、お辞儀を終えたおじさんはその方角を向いたまま、そっと手を合わせた。
パン、パン。
窓を閉めていたから音は聞こえなかったけれど、2回ほど手を打ったように思う。そうして手を合わせたまま、しばらくのあいだ、祈るようにじっとしていた。
お祈りが終わると、おじさんはもう一度、ゆっくりと2度ほどお辞儀をした。これもまた、深く、ていねいなお辞儀だった。
* * *
あの礼拝は、おじさんの習慣なのかもしれないなあ。
勝手な想像だけれど、わたしはそんなふうに思った。その日だけやっているとは思えないような、とても安定感のある、美しい所作だったのだ。
それにわたしたちが眺めていたのは、周辺にある葬儀場の駐車場の一角だった。お通夜や葬儀があるときは、車が一気に増える。でもその時間は、他の車はほとんどなかったから、あのおじさんは葬儀場で働くスタッフの方だったのではないか。そんな想像をした。黒ネクタイも頷ける。
ひとの命を見送る現場で毎日を過ごす身として、おじさんは仕事を終えて車へ乗り込む際、朝日にむかって祈るような習慣があるのではないだろうか。
「今日も新しい日を迎えることができて、ありがとう」なのか、「みなさま、どうぞ安らかに」なのか、はたまたどちらも違うのか。おじさんの気持ちそのものはわからないけれど、きっとそれに近いような何かしらの思いが、あの美しい礼拝には込められているのではないだろうか。
もちろんすべて、勝手な想像にすぎないけれど。
* * *
期せずして朝から「朝日にむかってひとり礼拝をするおじさん」を見て、その美しい所作に、わたしはなんだか荘厳なものを見させてもらった気分になった。
医療や介護や、お寺や葬儀場や。それぞれ立場は違うけれど、ひとの命に毎日、向き合いつづける現場というのはどのようなものだろうか。それが彼らの「日常」である。お気楽な毎日を過ごしているわたしには、とても語ることができない。
いくつもの命を見送る日々のなかで、おじさんは何を思うようになったのだろう。その礼拝をはじめた背景に、どんなストーリーがあったのだろう。
ほかほかとあたたかな娘の、ずっしりとした命の重みを腕に感じながら、そんなことを思っていた。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。