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砂場にて

いわゆる人付き合いというものに器用なほうではないわたしは、子どもたちの場にいると学ぶことがとても多い。

昨日も帰省先の近所の公園で娘と遊んでいて、ちょっと感銘を受けるような出会いがあった。

そもそも幼子とゆく公園というのは、意外と地味にコミュニケーション力を使うところだ。今ではわたしもだいぶマシになったと思うが、すべり台の順番待ちだとか、他の子にぶつからないかだとか、安全確保や秩序確保のために親同士には暗黙の緊張感が漂っている。

いや、緊張感と位置づけているのはわたしだけなのかもしれない。もともとの素質や、経験値による差で、もはや息を吸って吐くように自然な形で公園の輪のなかに存在しているような親御さんもたくさんいらっしゃる。

一方でわたしはそんな親御さんを見るにつけ、はあ、わたしも早くこなれたい、こなれることなんてできるんだろうかという思いが頭のなかでぼんやりと回り、自分のなんだかとってつけたような「ほら、順番だよ〜」なんてことばを聞きながら、おとなのふりをする自分にため息をついてしまう。

だからそんな公園で、「コミュニケーション」なんて小難しいことばを知らずとも、わたしよりはるかに軽やかに上質なコミュニケーションをとっている子どもたちを見ていると、頭でっかちな自分に心底がっかりして、はああ、なんだかなあとなる。すごいよ、みんな。

わたしも小学生のころくらいまでは、あんなふうに話しかけたりできたはずなのに。むしろ「コミュニケーション」なんてことばを知るようになってから、コミュニケーションというものに苦手意識を持つようになった気がする。

ことばを知るのはよいことばかりではないかもしれない。

* * *

その日、ひととおりすべり台とブランコを楽しんだ2歳の娘は、小学生くらいの女の子がひとり遊んでいる砂場に興味をもったのか、とてとてと砂場に近づきはじめた。

帰省先でお砂場セットも持ってきていなかったので、内心“ああ、また何かしらのやりとりが発生するコーナーに来てしまった”と、まあ明らかに親向きではない考えを自分のなかにちりちりと感じながら、まあいいやその場にまかせようと、とぼとぼと娘のあとを追う。

年の近い「ちょっとお姉ちゃん、お兄ちゃん」くらいの子だと、ちょうど「自分のもの」という概念が強く生まれはじめて、1、2歳くらいの子がよくわからず自分の道具に手を伸ばしたりしたとき、「わたしの!」「ぼくの!」とブンッと激しめに引っ張ったりすることはよくあるものだ。

そんなときはだいたい、片方の親が「ほらほら、それおともだちのだよ〜」といい、もう片方の親が「いいじゃない、いっこ貸してあげたら〜」なんて言ったりして、なんとなく暗黙のルールにのっとりながら秩序が保たれる。

そんな場数も徐々に増えてきたから、まあその場を無難にやりすごすことはできるのだけれど、まあ正直なところわたしにゃ向いてない。自分のなかにどこかぼんやりと嘘くささを感じながら、おとなのふりをして秩序を保つ役割を担うのは、荷が重いのだ。やるんだけど。

だからそのときも、ああ、いま砂場で遊んでいる女の子はどんなタイプかなあ、このあとどんな展開になるかなあ、2歳の娘が砂場の秩序をかきまわして怒んないといいけど……なんて思いを心のどこかにぼんやりいだきながら、砂場に近づく娘を見守っていたのだった。

* * *

とてとて、と砂場の近くまで早足で近づいていった娘は、近くまで来るとなぜかそこで足をとめ、砂場のなかで遊ぶ小学生らしきお姉さんに興味をもってじっと見つめていた。我が子は新しい場にくると、とりあえず観察から入るタイプだ。

砂場へとはいる枠もまたがず、お姉さんを見つめたまま固まっている娘。

どうするのかな〜と見守っていると、ふいに横から「これ、使っていいよー!」と元気な声がした。

なんと先の女の子が、わざわざ遊んでいた手をとめ、自分のお砂場セットからスコップやくまで、いくつかの型を持ってこちらへ来てくれたのである。アンパンマンの絵が描かれたそれらを「いいよ、使って〜!」と惜しみなく、娘へずずいと差し出す。

無言の娘のかわりに「ええ、いいの?こんなにたくさん……?」と聞くと「うん、わたしこれとバケツしか使わないから!」と手に持った道具を指して元気に言う。ここは素直に女の子の好意に甘えてもいいかしら。「優しいねえ。どうもありがとう、じゃあちょっとだけ使わせてもらうね、ありがとうね」と、娘と一緒に砂場に入って遊びはじめた。

しばらくは別々に遊んでいたが、途中から女の子が「一緒に遊んでもいーい?」と言うので、いやそりゃもちろん、むしろ娘と一緒に遊んでくれるなんて嬉しいわと、3人で遊びながらいろんな話をした。

彼女は小学校2年生で、親の帰省で連休中だけ遊びにきていた。

「いとこもね、まだ小さい子いるんだけど一緒に遊んであげてるの」とか、「保育園のときから、いつも小さい子のお世話してたから!」とはきはき話してくれるとおり、なんだかとっても小さい子と遊ぶのが上手で、とても優しい。

まだ上手に砂場の道具を使いこなせない娘は、たとえばわたしがバケツや型に押し込んでつくった砂の塔みたいなものを、がしゃがしゃと壊すのが得意なフェーズだ。

女の子も最初は「じゃあこれ一緒につくろう」と、型に砂をつめて一緒に塔をつくっていたのだが、案の定、うまく作れない娘は途中で飽きて、手でわーっとそれを崩しはじめる。あ、せっかく自分が作ったものを壊されて、怒っちゃうかしら……?と、ちょっとドキドキするわたし。

しかしそのようすを見ていた女の子は明るい声で、こう言った。

「そうか、壊すのが好きなんだね〜!」

そのまま「よし、じゃあ、1回壊したら100点ね!」とゲームを立案し、壊されるための砂のアンパンマンと砂のバイキンマンを量産しはじめた。そして娘が手でぐちゃぐちゃに崩すと「上手に壊したね!300点〜!」と楽しそうに盛り上げてくれる。

や、やさしい……。

その後も、娘の反応を見ながらリアルタイムで遊び方を変えてゆく。娘の得意なこと、楽しくできることを見つけて、それを生かせる遊びへとどんどん変えていってくれるのだ。

最初はうまくすくえなかった砂が、徐々にすくえるようになってゆく(でもまだほとんど落ちてる)と「すごい!最初よりずっとうまくすくってるじゃん!」と短時間の小さな変化を欠かさずほめてくれる。

ほああ、すごいなあ……とわたしは思いながら、「いとこちゃんたちがいるから、小さい子と遊ぶのすごく上手だねえ〜」と思わずいうと、彼女はこう言った。

「保育士なの」

え、保育士? 思わず砂を掘りながらも顔をあげて、はじめて彼女の顔をはっきりと見た。小学2年生の、素直でまっすぐでやさしくて、でもしっかりと頼もしい眼差しがそこにあった。

「保育士にね、なりたいの」

ああ、そういうことかと腑に落ちて、でも同時に、すごいな、小学2年生で保育士になりたいってもう決めているのか、しかももはや実践レベルが高すぎるし絶対向いているよ……とひれ伏したい気持ちになった。

「そうなんだね。お世話すごく上手だし、褒め上手だから、向いてるねえ」と、心からのことばで返す。

聞いてみると、女の子は3つほどの保育園に通ったそうだ。その最後の保育園の先生方が小さな子をお世話する姿をみて「すごいなあと思って…えっと、なんていうんだっけ……、尊敬!みたいな気持ち」を抱いたそうだ。

「それまではね、プリキュアになりたいとか、ママが絵が上手だって言うから絵を描く人になりたいとか言ってたんだけど、保育士になりたいと思って、保育園にいるときから、先生たちからいろいろ勉強していたの」だそう。呼び方も覚えたよといって、乳児、幼児、なんて呼び方の区別についてうれしそうにわたしに教えてくれた。

すごいなあ、小学2年生でこんなにはっきりと、おとなからみても現実的に叶いそうだなと思う将来の職業を見据えている彼女もすごいし、在園中から彼女にそれほどの強い思いを抱かせた、当時の保育士さんもすごいなあと思う。

どんな保育士さんたちだったんだろう……。そう思いを馳せながら、娘と遊んでくれる彼女の姿をみていて、ああ、そうかそれがこの姿なのかもしれないな、と感じた。

目の前の子が「できないこと」に注目するんじゃなくて、「できること」をしっかり見つめて、それを生かして楽しめるヒントを差し出してくれるような。

そんな保育士さんの心意気が、目の前のミニ保育士さんには確かに受け継がれているような気がした。

* * *

会ったその日の翌日には、自分たちの家に帰るんだと言っていた女の子。

わたしたちもね、遠くから、お休みのときだけ遊びに来ているんだよと伝えると、「夏休みにはさ〜、また会えるかなあ?」なんて言ってくれる。

そういえば別れてから気づいたけれど、その女の子の親の年齢(聞かなくても話してくれた)って、生まれ月によっては自分と同い年だ。

その子はおばあちゃんと公園に来ていたからわからなかったけれど、もしかすると、わたしの小学校や中学校の同級生の子、だったりして……。そんな可能性にあとから思いいたり、じわりと不思議な気持ちになる。

またどこかのお休みに、お互いタイミングが合うだろうか。

いや、そうでなくてもきっと、また帰省したときには、その公園に行ってしまうんだろうな。

あの子に会えるかもなんて、淡い期待を込めて。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。