【お題エッセイ】#005 風邪
新年早々、どうやら夫は風邪をひいてしまったらしい。
ここ数日やたらと鼻をかんだりくしゃみをしたりしていたので、「悪化しないようにくれぐれも気をつけてね! からだ冷やさないでね!(意訳:こちとら妊婦なんで風邪ひかれちゃ困るんだぜ!)」と言っていたら、今日帰ってきて案の定、ポツリ。
「なんか喉も痛い……」。
ああ、だから言わんこっちゃない。悪化しているじゃないか。
とりあえずグツグツ煮込んだ温かいものを食べてもらって、追い立てるようにして「寝て!」もらい(笑)。
私はふってわいた“風邪”という単語でもお題に、とりとめなくダラダラと文章を書いてみる、静かな夜。
* * *
風邪、という言葉を頭の中で転がしていて最初に浮かんできた映像は、やはり、自分がこどもの頃に、母親に看病してもらっているときの記憶だった。
こどもの頃の風邪と言えばたいてい発熱していて、ベッドで寝込んでいて。
枕元にはポカリスエットの入ったコップ。いつでも飲めるようにと、コップには(普段は使わないのに)ストローが挿してあり、蒸発しないようにラップがしてある。それが風邪のときの我が家の定番セッティングだった。
熱が高くて寝込んでいるときは、ごはんも部屋まで運んできてくれる。
消化のよい、優しい味のおかゆや、うどん。
そして熱が高いとき、風邪の特別待遇として許される、桃缶や、みかんの缶詰。甘いシロップに浸かった桃缶は、普段は贅沢品の位置づけなのに、なぜか熱が出るとよく買ってきてくれた。
そういった食事やデザートを、布団に入ったまま、座って食べる。元気なときにはお行儀が悪いと許されない行為が、このときばかりは許される。怒られるどころか、心配されて、むしろ優しくしてもらえる。
その感じが、子供心になんとも特別で。
具合が悪くてつらかったはずなのに、それよりもそんな特別感のほうが、印象に強く残っているのだから不思議だ。
おかゆやうどんを持って部屋に入ってくる母の様子や、当時のベッドのふかふかとした感触。
そんなシーンが鮮明に、でもきっと実際よりもちょっとだけ美化されて、記憶に刻まれている。
* * *
大学を卒業して働き始め、ひとり暮らしをしていたときは、風邪をひきそうになるととりあえずおまじないのように、スープを作っていた記憶がある。
人参や大根やネギや生姜や、とりあえず体に良さそうな野菜たちをみじん切りにして、コトコト煮込んで煮込んで。
温かいスープと生姜の効果で芯から体を温めて、とりあえず早く寝る。誰も看病してくれる人がいないから、自分でなんとかするしかない。それがひとり暮らしの自由の代償みたいなものである。
そういえばその当時、一度猛烈にひどい胃腸炎にかかったことがあって、小さなアパートの中、ひとりトイレに向かって吐き続けたのを覚えている。
心配してくれる人もなく、行きつけの病院もなく、まだ慣れない土地でなんとか休日にやっている病院を調べ、這うように徒歩で病院へ行った。
大人になるってこういうことだったんだ、と思い知った。
* * *
それからまた時はめぐり、自分にも新しい家族というものができて。
今日の朝も夫は鼻をぐしゅぐしゅしていたので、夜は何か体に良さそうなものを……と一応思いをめぐらせ、夕食にはサムゲタンもどきを用意した。
高麗人参はごぼうになり、丸鶏は手羽元になり、栗はサツマイモになり……と代用だらけの“もどき”だけれど(笑)、ネギもにんにくも生姜もたっぷりと入れ、圧力鍋で一気に煮込んで、鶏の軟骨までもホロホロとやわらかく。
スープには鶏や野菜たちからあらゆる栄養と旨味が溶け出し、手間はかかっていないのに食材たちのおかげですこぶるうまい。
一口含めば、「滋味〜!」と小さく叫んでしまうくらいに、素材の旨味だけでうまいのだ。まさに「これは風邪のひき始めに効きそう」という味わいである。ひとえに食材たちに感謝。そして圧力鍋バンザイ。
帰ってきた夫に、たっぷりとそのサムゲタンもどきを食べてもらい、体の冷えないうちに早く寝て!とおどして(?)寝てもらい。
ひとり静かに駄文を綴って、今に至る。
明日にはいくぶんか、よくなっているとよいのだけれど。
がんばれ、免疫力たち。
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→【お題エッセイ】#000 お題エッセイ
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