一匹の蚊 ―いのちのおわり
おとなになるといろいろなことに鈍感になる、と思う。
「こどもの頃のように純粋な感覚を忘れないようにしたい」と常々思い続けてきたけれど、それでも、よくも悪くも、いろいろなことに鈍感になってきたな、とふと気づくときがある。
“死”というテーマについて考えるときも、そのひとつだ。
よりによって新年早々のこれから三連休!いぇい!という金曜日に“死”というテーマのエントリはまぁ読まれないだろうなぁ、とは思いつつ。
出産を目前に、命についてぼーっと思いを巡らせていたら、死についても自然と考え始めてしまったので仕方がない。
自分の脳内記録ということで、書いてしまおう。
* * *
私が死というものを認識したのは、小学生のころだったと思う。
気づいたときには、自明の事実としてそこにあった。
おばあちゃんやおじいちゃんが亡くなり、お父さんやお母さんが亡くなり、そして自分も、いつか死ぬ。
それだけは、何がどうなっても、絶対に変えられない事実。
そのことが、小学生の自分には本当に恐ろしくて、ひとたび考え始めると暗いブラックホールに落ちるような気がして、発狂しそうになった。
同時に、世のおとなたちが普通の顔をして毎日を過ごしていることも、本当に不思議で、信じられなかった。
「こどもである今の自分たちより、着々と“死”に近づいているはずなのに、どうしておとなたちは皆、平気な顔をして毎日を送ることができるんだろう」
発狂しそうな頭を抱えながら、そんなふうに思っていた。
* * *
今、その小学生は大人になり。
満員の通勤電車や、スーパーやショッピングセンターの買物や、駅前の人通りや。そんな人ごみの中にいるとき、ふっ、とその感覚を思い出す。
ここにいるすべての人たちも、そして自分も例外なく、一歩一歩死に近づいているということを思い出す。
けれどすぐに、「まあ、いま考えても仕方ない」と、その考えを頭の隅へと追いやって。
緊急度の高い、もっと大切だと思われること―「今日会社についたらやるTODO」や「今日の夕飯のおかず」などについて考え始める。
変えられないことについて考えても仕方がない。今、目の前にある大切なことについて考えるしかない。
今では、おとなたちが平気な顔をして毎日を送って(いるように見えて)いた理由が、なんとなくわかる。
* * *
正直にいうと私はまだ、死というテーマに向き合えたことがない。
むしろこの先も一生、「向き合えた」と思うことなんてできないんじゃないか、と思う。
「いつか必ず死ぬのだから、そのことについて考えておくのは大切である」とか、「死を意識することこそ、生き方を考えることである」とか。そういった考えを頭では認識しているし、本当にそうだなぁとも思っている。
実際に、思いを巡らせることは何度もある。
ただ、具体的に思いを巡らせているうちに、やっぱり冷静ではいられなくなって、そこから逃げてしまうのだ。
自分が死に、こどもや孫も死に、燃やされた灰が埋まったお墓も、それらが埋まる地球という星もいつか死に……、と考える。最終的にはいつも、果てしなく広がる黒い宇宙のイメージになっていく。
そのイメージにたどりつくころには、体の中を流れる血液の温度がさあっと低くなって、いったい自分はドコへ向かうのだろう? 向かっているのだろう? と怖くなる。発狂しそうになる。
小学生の頃の自分と、何も変わらない、と思う。
おとなになってしまった私は、「そんなこと、いま考えても仕方がない、今目の前のことをするしかない」とあわてて日常へと思考を戻す。
自分の死についての意識は常にありながらも、どこかフタをして、頭の片隅にむぎゅり、と押し込まれている。
* * *
私たちは日々の生活のなかで、自ら蚊や小バエを殺し、ゴキブリを殺し、シロアリを殺したりしている。
例えば夏に仲間とバーベキューなんかをしていて、蚊に刺されて「かゆいかゆい」と騒ぐその輪のなかで、血をたらふく吸った蚊をしとめたとする。
すると「やったね!」なんて言葉とともに賞賛されたり、ときにはそこに笑いが起こったりすら、するんじゃなかろうか。
ある一匹の蚊の“死”に対して。
また、そうやって直接手を下さなくとも、毎日食卓には美味しそうなチキンやポークやビーフ、魚が並び、摘み取られた野菜や果物が並ぶ(個人的に、“死”は植物にもある概念だととらえている)。
私たちはそれらを喜んで口にすることで、エネルギーを得て、元気になる。
あらゆる“死”によって、私たちの“生”は成り立っている。
* * *
一匹の蚊の死に対して笑い飛ばしたり、肉汁したたる焼肉に舌鼓を打つ一方で、人の死に対してだけ、特別視をしてしまう自分たち。
からだのサイズの問題か、知能の問題か、何が違うのか。
本来、その蚊一匹の命と私の命は等価であるはずなのではないのか。
けれど、自分でそう書きながら、心の底からそうだと思いきれない、自分のこのモヤモヤとした気持ちは。
ニンゲン至上主義にどっぷり染まって抜け出せない、この気持ちは、どうしたものだろう。
* * *
今日もこの思考に、着地点はないのだけれど。
ただ、いつもは頭の中だけにむぎゅり、と押し込まれていたこのトピックを、誰もが関係あるのになぜかタブー視されているこのトピックを、まずは一度、とりとめなくでも文章に落としてみたかった。
これからも、生きている限り何度でも、私は死について考えるだろう。
そしてきっとこれからは、最終的には宇宙ではなく、隣で眠るたいせつな存在たちの幸せを、強く思うようになるのだろう。
自分の力では到底抗うことのできないもの、変えられないもの。頭の片隅にむぎゅりと押し込んでいたそのフタを、ときどきはきちんと開けて、その事実を「そうなのだね」と確認して。
その上で結局は、自分が変えられることに目を向けて。
自分の手によって生み出すことができる日々の小さな幸せを、とるに足らないことの連続に思える、やさしく穏やかな毎日を、たいせつな存在へと紡いでゆこうとするのだろう。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。