終戦の日に、鶏肉を口にしなかった祖母を想う(エッセイ)
「これ、鶏肉だろう? わしは食べん!」
祖母は細くむしった茹で笹身を僕の皿に移した。
「おばあちゃん、なんで食べんの? 嫌いなの?」
そう言うと、祖母は、口を堅く閉じ、ぷい、と横を向いた。
どんな部位であれ、いかなる調理法であれ、鶏肉を一切口にしない祖母は、同居の孫にも理由を言わなかった。
しかし、その気配から、好き嫌いなのではなく、何か宗教的な理由なんだろうな、と感じていた。
家には仏壇があり、僕が生まれる4年前に亡くなった祖父の写真の前で、よく手を合わせていた。
夭折した2男を除き、5男1女を育てた祖母の15番目で最後の孫だった僕に、彼女はいつも厳しかった。
母がフルタイムで働いていたため、70歳前後になって毎日孫2人の世話を引き受けるのは、肉体的にも精神的にもたいへんだったろう、と思う。
鶏肉は食べないが、菜食主義というわけではなく、祖母は牛肉も豚肉も食べたし、鶏卵も食した。
日本酒もビールも、ほんの少しだが、飲んだ。
一切口に入れないのは、鶏肉だけだった。
僕が東京の大学に入り家を出た頃、祖母は80代後半になっていた。
戦地で亡くなった甥のひとり(彼も東京の大学生だった)と僕を混同するなど、つじつまの合ったコミュニケーションが難しくなってきていたが、それでも、鶏肉だけは決して口にしなかった。
── たぶん、その頃、帰省した時に父から聞いたのだと思う。
祖母が鶏肉を食べないのは、
自分の息子が生きて戦地から戻れますように、と《願掛け》をした時に誓ったから
── だそうだ。
その「息子」とは、陸軍航空士官学校に入っていた僕の父ではない。おそらく平均的な愛国者であった祖母は、職業軍人の卵だった父に関しては、既に《お国に捧げた》と考えていただろう。
父のすぐ上の兄 ── 兄弟の中でただひとり、徴兵を免れる理由を持たなかった息子 ── が出征した後、神仏どちらか、あるいは両方に、《鶏肉断ち》の願掛けをしたのだった。
赤紙1枚で戦地に送られた伯父は幸い、戦後無事に復員し、結婚して3人の子をもうけた。
僕がその話を父から聞いた頃、伯父は既に定年を迎えるぐらいの齢だった。
── もういいんじゃないの。
そう思った。
いや、伯父が無事に復員した時点で、神仏にきちんと感謝すれば、「鶏肉断ち」を止めたってバチが当たることはないんじゃないの、とさえ思った。
けれど祖母は、おそらくは息子を「生かして帰してくれた」ことに《感謝》を忘れることなく、戦後、さらに35年間、《誓い》を守った。
僕が結婚した年に、祖母は92歳で亡くなった。
結婚相手を紹介したが、もうあまりわかってはいなかった。
祖母が《守った》伯父は、それから32年後に、同じ92歳で大往生を遂げた。
終戦の日にふと祖母を想い、仏壇に手を合わせた。
彼女が、おそらくは《お国に捧げた》と覚悟した父も戦後復員し、同じ92歳で永眠した。
なぜ鶏肉?の謎解きをしてみました:
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