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「本社・工場」ってどこ? (エッセイ/一括再掲)

学生結婚前後の話を、断片的に書いたことがあります。
➀ 独身時代に愛用していた《キリンベッド》を、結婚で手放さねばならなかったこと、それに、
➁ 大学院研究室の教授に頼まれて、息子さんに《将棋とキャッチボールの家庭教師》をしていたこと。

その時代に、もうひとり、書き留めるべき人物がいます。

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妻は結婚前の1年間、北九州で教師をしていた。年度末の3月31日に入籍し、4月1日に結婚することになったため退職し、東京で仕事を探すことになった。
なお、入籍が結婚前日なのは、この日までなら教職員の共済組合から結婚祝い金が出る規則だったからだ。金額は5千円程度でも、瞬間・無収入となる我々にとっては、非常に貴重な《収入》だった。

妻がまだ九州で仕事をしている3月初め、僕は大学の学生課にびっしり貼ってある求人票の中から、彼女に勤まりそうな仕事をピックアップした。
家庭教師や塾の講師から、大学病院の売血や新薬の治験台のようなものまであった。その中に、医療系の名前の会社が、フルタイムの事務職を求めていた。

学生への求人なのに「フルタイム」というのも《謎》だが、当時の学生課は求人のチェックなどしていなかったし、実際、フルタイムで働く学生もいた。

電話をかけて事情を話すと、《社長》と名乗る人物が、湯島にある営業所で働いてもらいたい、と言う。健康保険について尋ねると、
「近い将来、制度を作る予定だが、当面は国民健康保険で対応してもらう」
とのこと。
まずはどんなところか見てみよう、と住所を頼りにでかけると、4階建ての細いビルの2階に営業所はあった。
30前後かとみえるスーツ姿の男性が出てきて、名刺を差し出した。

社名・氏名・住所はすべて架空です。

「埼玉県の本社まで通うのはちょっと……」
名刺に書かれた住所を見て言うと、
「あ、大丈夫。奥さんにはこの営業所で働いてもらうから」
「そうですか。……どんな仕事なんですか?」
そのオフィスは、8畳ほどの1室に事務机が3台、電話が1台、あとはキャビネットが置いてあるのみ。
《謎》なのは、この貴重なスペースに、当時流行っていた《スペースインベーダー》テーブルが置いてあり、30代半ばぐらいの、バリっとしたスーツに派手なネクタイの男性が、わき目もふらずにゲームに没頭していることだった。

「基本的には、お客さんからの注文を電話で受けてもらうことです」
社長はわざわざ受話器を取ってみせた。
「この会社は昨年創業したばかりだけど、これからどんどん大きくしていくつもりだ。そのために、ぜひ力になって欲しい」
彼は手を大きく広げ、夢を語った。

4月になり、妻自身が社長の面接を受け、営業所で働くことになった。そして、驚きの内情がわかってきた。

その営業所には、いわゆる《正社員》がいなかった。
社長の他には経理担当の40代の女性Mさんがいたが、彼女は実はそのビルの大家夫人で、仕事が回っていかない若い社長を見るに見かねて、手伝い始めたということだった。
そして、インベーダーゲームに熱心だったのは「流れ者の営業マン」S氏で、この人は純・歩合給で仕事をしていた。創業間もないこの会社は、S氏の人脈で仕事をもらっている面もあり、社長はいつもこの人には下手に出ていたという。
妻はバイトながら、4人目のメンバーになった。

会社の仕事は医療関連の、良く言えば商社、実態は「配達屋」で、湯島・お茶の水界隈の病院やクリニックから、注射器や包帯などの消耗品、体温計や血圧計などの備品の注文を受けて届ける。

問屋との交渉や配達は、社長がほとんどひとりで行っており、当然、昼夜なく働き、徹夜して会社に泊まることも多かった。
朝、妻が出勤すると、オフィス横にある2畳ほどの倉庫の中で《行倒れ》のように寝ていることもしばしばだったという。

注文した品がまだ届かず、「苦情」電話がかかると、妻が、
「あれ、まだ着いていませんか? もう出てますけどお」
と《蕎麦屋の出前》応対の傍らで、社長が必死に梱包中、という光景が日常茶飯事の、ギリギリ《自転車操業》か実態だった。

妻が働き始めて2か月ほどしたある晩、僕は社長にメシでもどうだい、と誘われ、会社近くのお好み焼き屋に行った。
社長は28歳、僕は23だった。
ビールを注ぎながら、
「どうだい、君、大学院なんか辞めてウチに来ないか? 俺の《右腕》になってくれないか?
そう切り出された。
これから、ウチの会社はどんどん発展していくぜ。結婚したのにいつまでも授業料払っているより、自分の力で金を稼いだらどうだ? 研究ったって、先が見えないだろ?」
社長は、7割方は本気で口説こうとしていた。

(うん、それはそれで、面白いかもしれないな)
そうも思ったが、その日の僕は首を縦に振らなかった。

「あのさ、社長の名刺見たことある?」
妻に尋ねたことがある。
《本社・工場》って埼玉県の住所が書いてあるだろ? 社長は本社にも行くの? 本社には他に社員がいるの?」
「え? 《本社》? そんなものないでしょ。……湯島のあの狭い部屋だけだと思うけど。だいたい、《工場》なんてありえないし、必要ないでしょ。問屋から仕入れたものを病院に納めるだけなんだから」
妻は怪訝けげんそうに言う。
3月にもらった名刺を見せると、
「ああ……、それ、たぶん、奥さんの実家だわ。奥さんの両親と子供が住んでいて、社長も週末は帰ってるみたい。……普段は忙しくて、ほとんど倉庫で寝てるみたいだけど」
「奥さんの実家が、《本社・工場》?」
「あの人ならありうるわ」妻は続けた。
「とにかく、自分を大きく見せたいみたい。……というより、ああいう仕事、大きく見せるのが仕事を取るために重要だ、と信じてるみたい」

**********

妻は半年後、条件がより良い、産休代替教員の職を得て、その会社を辞めた。

「大きく見せた」自己の実現に向けて八面六臂はちめんろっぴ状態で働く社長、経理担当に巻き込まれた家主夫人Mさん、いつ去るかわからない営業マンS氏、そして、電話番はじめ雑用全般をこなす僕の妻。
── 4人しかいない会社から、半年働き仕事を覚えた妻が抜けるのは、大きな打撃であるのは間違いなかった。

しかし、産休代替とはいえ、教職の仕事は給料面でも福利厚生面でも、バイトとは比べ物にならないほど魅力的であり、彼女は転職を決めた。

**********

この《社長》にはその後、年月を経て間欠的に何度か、その噂を聞いたり、その姿を見かけることがあった。
そして、そのたびに僕は、もしあの時、彼の《右腕》になる道を選んでいたら、どんな人生があったろうか、と考えた。

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修士課程を終えた僕は、故郷の街に戻って就職した。

1年半ほどが過ぎた頃、所用があり、夫婦で上京することになった。
以前の同僚でもある家主のMさんを訪ねてみたい、と妻が言うので、久しぶりに湯島で地下鉄を降りた。
4階建てビルの3,4階に住むMさんは、我々をとても歓待してくれた。
「あの会社、まだ続いているんですか?」
妻が尋ねると、
「続いてる ── どころか!
経理担当、今では《元》がアタマに付くMさんは、大きく目を輝かせた。
「あの頃は2階のひと部屋だけだったじゃない? 1階部分を貸してた会社が出て行った跡に、オフィスを移したのよ。2階も全部借りて、今は倉庫に使ってる。気が付かなかった?」

そして、連絡を受けた《社長》が3階に上がってきた。
「おう、久しぶり! これ、見てくれよ。ウチのカタログ作ったんだ!
それは、厚みが1センチほどもある、全ページカラー写真の医療用品カタログだった。背表紙には社名が大きく掲げてある。
「相談受けた時、わたしは反対したのよ。印刷に目玉が飛び出すほどお金がかかってるんだから」
元・経理担当は言った。
「いやあ、商売ってのはね、こういう《玄関》にあたるところを立派にしておくのが肝心なのさ」
社長は相変わらず、意気軒高だった。
「このカタログ、1冊持ってってくれよ!」
何度も僕らに押し付けようとしたが、いえ、それはお客様用でしょ、と固辞した。
《右腕にならないか》と言われた時から、3年ほど経っており、《社長》は31歳のはずだった。彼の顔も体も、以前と比べ、ほんの少しふっくらしていた。
(……余裕ができてきたんだろうな)
「帰る前に、必ず事務所に寄ってくれよ。社員たちに引き合わせるから」
必ずね、と何度も繰り返しながら階段を降りて行った。

30坪ほどの1階フロアには、《社長》の他、10人ほどの部下がいた。
女子社員は制服らしきものを着ていた。
社長は部下全員を起立させ、僕らを紹介した。
「創業期にたいへんお世話になった、会社の恩人、Tさんご夫妻だ」
全員が、僕らに頭を下げた。
インベーダーゲームに熱心だった、流れ者・S氏の顔はもうそこに無く、それは僕らを安心させた。

地下鉄の階段を降りながら、妻がつぶやいた。
「……お世話になったっていっても、半年間バイトしてただけなんだけど」
「たぶん、見せたかったんだよ」と僕は言った。
「苦しい時代を知っている人間に、── 《成功》したことを」
「……でも、ひとり、いたわね」
妻の言う意味が、僕にもすぐわかった。
「ああ、いたいた、── 課長だって紹介してた人だろ?」
「そうそう」
部下の中にひとりだけ、年齢は《社長》と同じくらいだけど、有能かつ信頼できそうな男性社員がいたのだ。
── あの会社、大丈夫かもしれないね」
「── そうだね」
その人が、《社長》の《右腕》なんだろう、と僕は思った。

**********

その後、僕たちにもいろいろなことがあった。
子供がふたり生まれ、《再勉》のため3年ちょっとの間、渡米していた。

帰国して数年経った頃、《社長》から、とても立派な封筒が届いた。
《創業20周年と新社屋への移転記念パーティー》への招待だった。

パーティーには、妻が元・経理担当のMさんと共に出席し、50人近い出席者の前で、またもや、《過分なる》紹介を受けたという。

その後長らく、《社長》とは、印刷された年賀状をやりとりするだけの付き合いになっていた。

ある年の年賀状に、
  ついに、本郷通りに進出しました。
との手書きが添えられていた。

「……これって、すごいことなんだろうな」
「……そりゃ、そうでしょ。だって、本郷通りだよ」

そして、その後、彼からの連絡は途絶えた。

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連絡が途絶えた理由ははっきりしない。
リーマンショックと何らかの関係があるのか、あるいは、僕たち夫婦が再度しばらく日本を離れることになった、というこちら側の問題だったかもしれない。

連絡がなくなってから10年ほど後、唐突に《社長》から年賀状が届いた。住所は、山陰地方の小都市に変わっていた。
差出は会社名ではなく、個人名だった。
そして、
 *月*日のTV番組「**」に出ます
と書かれていた。
(……リタイヤしたんだろうか)
《社長》はおそらく、60代になっているはずだった。

その番組は、毎週、特定の地域をテーマに、名所・建物や自然・風景、名産品などを探索・紹介していく企画になっていた。その週の対象地域には、たしかに年賀状に書かれていた地方都市が含まれていた。

番組が始まって間もなく、僕たちは画面に懐かしい顔を見た。いくらか皺が刻まれていたが、長身で精悍な顔つきは、間違いなく《社長》その人だった。
その人物は地域活性化活動に取り組んでいると紹介され、故郷の原野を自力で拓いて整地している現場がTVに映されていた。
「僕たちは山野を駆け回って遊んだけど、今は山林が荒れてしまった。子供たちが、自然の中で遊べるような広場を山の中に作っているんですよ
若い頃に比べると、いくらか抑制気味ではあったが、《夢》を語る口調は変わっていなかった。

番組の後、ネットで調べてみると、《社長》はNPO法人の代表者として、医療関連のコンサルティングなどを行っていた。

それから間もなく、《社長》はその地方都市の市会議員補欠選挙に立候補し、当選したことがわかった。

「《社長》、還暦過ぎても相変わらず精力的だなあ」
「どこに行っても、どんな事でも、全力で頑張っちゃう人なのよ」

しかし、《社長》は次の統一地方選挙で、今度は県会議員に立候補し、落選した
事情はわからないが、ある方向に進みだすと、《モメンタム》でさらに「上」を目指してしまう人なのだ。

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今もたまに、「どうしてるかな」と彼の名を検索してみることがある。
現在はどうやら、農業の振興に的を絞り、地域の大学と一緒に《棚田》の保全や、安全な《食》を追及しているらしい。

《社長》自身はまったくあずかり知らないことだけれど、ネットで顔を見ると、オレも頑張らなくちゃな、と刺激を受けるのだ。

〈完〉

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