《陸軍登戸研究所》を知っていますか? (街で★深読み)
数年前に仕事で明治大学理工学部に行った時、会議後の雑談の中で先生に教えていただいた。
「この生田キャンパスはね、戦前、陸軍の秘密研究所だったんですよ」
そのことがわかる資料館がある、とうかがい、仕事が終わった後でさっそく見学をしてきました。
それ以前にも、何度かキャンパスを訪れ、時間調整で散歩した時に、不思議なものを見ました。
その時は遠目に見ただけでしたが、大学の構内に《神社》があるのです。
改めてそこを訪れると、説明のプレートが掲げられていました。
説明書きは、「研究(知恵)の神様である《八意思兼命》を祀る」と書かれています。後で調べると、この説明はかなりオブラートにくるまれたものでした。
この神社は、研究所で《殉職》した人を慰霊するため、東京にあった陸軍科学研究所の神社に祀られていた八意思兼命を分祀して創建されたようです。
この地にあった《陸軍登戸研究所》に関する資料館は、平屋建ての小ぶりの建物で、《明治大学平和教育登戸研究所資料館》とあります。
非常にセンシティブな資料を扱っているため、《平和教育》のための資料館であることを強調しているのが感じられます。
中に入ってみましょう。
受付で理由を書く必要があったので、私は「取材」と書きました。
なお、コロナ下で閉館になっていましたが、2021年10月13日から資料館を再開、ただし、当面は事前予約制とのことです。
以下、当時の大日本帝国が開発していた《秘密兵器》の数々です。
最も重要な開発課題は《電波兵器》だったようです。これは、エジソンのライバル、二コラ・テスラが晩年その研究に没頭していたのと同類の高周波兵器だったようですが、実は展示はほとんどなく、末尾の「証言映画」にちらっと出てきます。
以下、毒ガス/生物兵器、風船爆弾、偽札印刷等に関する展示を写真に収めたものです。
戦時中、アメリカの原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」関連の資料映像を見ると、非常に多くの《女性職員》が、何が行われているのかを知らされずに雇用されています。
《登戸研究所》の資料にも、毒ガスの運搬、風船爆弾の支持などに女性らしき姿が映っています。
日米とも、男は兵士として戦地に送られ、《銃後》の女性が動員されていたのでしょう。
以上は兵器関連ですが、《濾水》用に使われる、多量の《濾過筒》も展示されています。これは、《本土決戦》に備えて《軍用の飲み水》を確保するために用意されたものだとか。
下のリンクは、《登戸研究所》に関する証言映画の予告編です。
「それは言えません。墓場まで持っていきます」
が重い。
1945年8月15日に敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は登戸研究所のすべての関係資料の破棄を命令し、そのほとんどが処分されたそうです。
また、多くの関係者が固く沈黙を守ったため、長い間、研究内容は不明だった、とのことです。
なお、現在、資料館では企画展を実施中で、オンラインでも開催しているとのことです。
誤解があるといけませんので……
《登戸研究所》の跡地は、戦後、慶應義塾大学や北里研究所が一時使用し、明治大学は1951年に移転してきたもので、かつての研究所とはまったく無関係であることを追記しておきます。