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晴旅雨筆(エッセイ)

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これまでの人生で書き散らしてきたノートの切れ端をちぎれ絵のように張り付けたエッセイ。本を読み、山に登り、酒を呑み、街を歩く。
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#思い出

父を語れば [1/3] (エッセイ)

4年前に92歳で亡くなるまで父が暮らしていた隣家を取り壊すことになり、遺品を整理していたら、膨大な量の日記がありました。 古いものは彼が寄宿生活に入った13歳からで、中には「闘病日誌」と題された20代のノートも混じっていました。 定年退職後に母とふたり旅した記録を、写真と共に克明に綴る「旅日記シリーズ」もありました。 先月の「母の日」から3回に渡り、思い出を「母を語れば」と題して連載しました。 個人的な忘備録でもあり、果たしてnote読者の方々の興味を引くだろうかと心配で

沖縄復帰50周年に《四面楚歌》の日を想う (エッセイ)

その日、僕たちはいつものように、教科書で机を叩き、新任の数学教師に《休講》を要求した。 天気が良かったので、グラウンドでソフトボールをしたかっただけだ。 高校に入学して間もない僕たちは、早くもこの学校の(教師から見れば)《悪習》に染まり、くみし易い教師を(言い方は悪いが)脅し、《休講》を勝ち取って遊ぼうと、常に企んでいた。 ******** 話が横道に逸れるが、今年3月に開催された「ZOOMクラス会」で、 「あの頃、授業の始めに毎回毎回『休講!休講!』と喚く生徒たちのこ

母を語れば [1/3] (エッセイ)

母の日に。 個人的な話ではありますが、《ジジイの忘備録》です。 ご参考になるかどうかはわかりません。 私が物心ついたころ、母は聾学校の国語教師でした。 教え子が家に訪ねてくることもあり、母は彼らと、「手話」も補助的に使っていましたが、主に「読唇術」でコミュニケーションしていた記憶があります。 その中には、聾学校の同級生どうしで結婚し、洋服の仕立てをしているカップルもいました。応援する気持ちもあったのでしょう、ある時期まで、父の背広は、その教え子の店で仕立てていました。 母

母を語れば [2/3] (エッセイ)

母の日に書いた忘備録(↓)への追加記事です。 高校受験の時、特進クラスを新設する高校からのオファーに対して、 「自分のことは自分で決めなさい」 と母から判断を一任され、 《1万円とリスクを取るか、否か》 で悩んだ話を書きました。 この、 《自分のことは自分で決める》 に加え、それに付随した、 《判断結果により節約できた金は、判断を行った人間が成果として受け取る》 は、なんとなく、ではありますが、母がらみで《暗黙ルール化》されたようなところがありました。 2歳上の姉は、

母を語れば [3/3] (エッセイ)

母の日に書き始めた忘備録です。 中学の終わりに母に言われた、 「自分のことは自分で決めなさい」 「自分で決めた」学生結婚について、母に理解を求めたことなど。 今回が最後になります。 晩年の母は「自分のことを自分で」決めなくなりました。 そして、やがて、自分では決められなくなりました。 ************* 2年間の学生結婚の後、私は故郷の街で就職しました。 両親は実家の隣に家を建て、そちらに移り住みました。 母は隣家に住む《息子の嫁》に、徐々に《信頼》を寄せる

「For somebody, "YES", and for somebody, "NO"! They are stupid!」日本人中学生の素朴な?セクハラ?質問にアメリカ人女子高生はあきれ果てていたけれど (エッセイ)

昨日の続きです。 日本に来ても家の中に引き籠っているばかりのアメリカ人女子高生は、交換留学組織の提案で、日本の学校に《体験入学》することになりました。 長女の通う中学に話を通すと、「英語の勉強にもなる」と興味を示し、1週間(だったと思う)一緒に通学することになりました。 そんなある日、私が勤務先から戻ると、珍しく彼女がリビングにいます。どうやら、今日、学校で起こったことを妻に話しているようでした。 基本的には、その学校の生徒たちがいかに  《stupid》 であるかをまく

「Boys are all stupid!(男子はみーんなバカ!)」アメリカから来た女子高生は冷ややかに言った (エッセイ)

Snoopyと称するビーグル犬や、頭髪が手抜きで描かれたCharlie Brownという男の子が登場する4コマ漫画の傑作、「Peanuts」はよくご存じでしょう。 あるいは、TVアニメの方が知られているかもしれません。 このマンガにかなりの頻度で登場する単語に、  《stupid》 という形容詞があります。 バカ、間抜け、愚か ── そんな意味です。 Charlie Brownもよく使いますが、特に、わがままで口うるさい女の子Lucyが、SnoopyやCharlie Bro

「本社・工場」ってどこ?──大きく見せる (エッセイ)

学生結婚前後の話を、断片的に書いたことがあります。 ➀ 独身時代に愛用していた《キリンベッド》を、結婚で手放さねばならなかったこと、それに、 ➁ 大学院研究室の教授に頼まれて、息子さんに《将棋とキャッチボールの家庭教師》をしていたこと。 その時代に、もうひとり、書き留めるべき人物がいます。 妻は結婚前の1年間、北九州で教師をしていました。学年末の3月31日に入籍し、4月1日に結婚することになったため、退職し、東京で仕事を探すことになりました。 なお、入籍が結婚の前日なのは

続々「本社・工場」ってどこ?──故郷へ (エッセイ)

続きです。 《社長》は、狭い《営業所》から出発し、ついに《ホントの本社》を大通り沿いに《進出》させました。 その後、連絡が途絶えた理由ははっきりしません。 リーマンショックと何らかの関係があるのか、あるいは、僕たち夫婦がしばらく日本を離れることになった、というこちら側の問題だったかもしれません。 連絡がなくなってから10年ほど後、唐突に《社長》から年賀状が届きました。住所は、中国地方の小都市に変わっていました。 差出は会社名ではなく、個人名でした。 そして、  *月*日の

朝起きて鏡を見たら、眉と髭が「《羊》になってる!」 (エッセイ)

「(アフガニスタンとの)密輸はやめよう」 カシュガルの大通り上空に翻るスローガンについて、35年前のウイグルの旅の想い出を書きました。 同じその旅の中に、今も想う《悪夢》があります。 ラム肉を食べながら生ビールを飲む時は、「つまみ話」に語りますが、なかなか信じてもらえません。 ウイグルでは、どの町でも、四角いイスラムの帽子をかぶったオジサンが道端で炭火を熾し、羊肉の串焼きを売っていました。気の利いた《店》には瓶ビールも置いてある。 ツアー一行の中で気のあった何人かとでかけ

「密輸はやめよう」カシュガルの大通りにはためく横断幕に書かれたスローガンを、「中国ータリバン」関連ニュースで想い出す (エッセイ)

昨日のニュース(↓)で、遠い記憶がよみがえりました。 中国は新疆ウイグル自治区を介してアフガニスタンと国境を接している。 35年前、「カキモノ」がらみで臨時収入があり、GWと勤め先の有給休暇をからめて旅に出ることにした。 それまでの旅で一番印象に残っていたのは、ソ連領中央アジア・キルギス共和国側から登った(といってもハイキング程度)天山山脈北山麓の、どこまでも続く《天然お花畑》の美しさだった。 それ以来、 (いつか、天山山脈の南側に行ってみたい) そう思っていた。 当時

先生に「先生」と呼ばれた学生 (エッセイ)

2年前の今月、工学部(卒論研究)と大学院(修士論文)で計3年間、担当教授としてお世話になった恩師が亡くなった。 先生はクリスチャンで、真面目で穏やかな人だった。学科の他の教授のように、権力争いをしたり、高圧的だったりすることが皆無だった。 修士課程進学と同時に結婚した僕は、その専攻でただひとりの既婚学生だった。 いわゆる披露宴は行わなかったが、担当教授からは、 「おめでとう。これ、少ないけれど」 とお祝いをいただいた。 そして、 「同じ松戸市内だからね。……別の面で《応

ホメる先生、ケナす先生 (エッセイ)

昨日、《芸風》がまったく異なる《物語》を投稿しました。 それもそのはず、「こま犬物語」は、私が中学に入学間もない頃に書いた(というか、書かされた)ものなのです。 私の人生の中で、中学生活は結構、暗い時代でした。 クラスの女子にビートルズのレコード(Let It Be)を借りて夢中になったり、浴衣姿の女の子と花火見物に行ったり、フォークギターを弾き始めたり、友人関連はそれなりに楽しかったのですが、先生たちがひどかった。 中学の先生というのはどこもそんなものなのか、たまたま

映画館《ならでは》、と今も想い出す《共感現象》エピソード2題

映画は主に、車で10分前後の場所にある、郊外型シネコンに出かけて見る。オンデマンドやレンタルなど、テレビ画面で見ることはほとんどない。 《わざわざ、映画館?》と尋ねられたら、一応、 「大画面の迫力」 と《無難な》答えで応じる。 でも、本当の魅力は、劇場全体での《共感現象》にある。 はっきりそう言えないのは、《共感現象》に出合う機会が少なくなったからだ。 今では、ミステリー映画で、観客全員が《息を呑む》場面ぐらいになってしまった。時節柄、それすらも《自制》しなくちゃならない。