プロフィール

星原と申します。
ご訪問して頂きありがとうございます。

夢も特になく、
成長のための努力も無縁の平凡な主婦が

個人事業主となってから
大きく時間の使い方を変え、

自分らしく過ごせるようになるまでを
ここで書きたいと思います。

私は四国に住む主婦で、
現在 40歳です。

9歳長女、8歳長男の
2人の小学生がいます。

小さな塾で働きながら
子育てや教育、勉強法について
学び、実践しています。

「学ぶことは楽しい!」

という想いをベースに、
今後も楽しく
活動していきたいと考えています。

■ 小中学生時代:「自信過剰から一転、精神を病む」

ずいぶん前のことにはなりますが
幼少期を振り返ってみますと

私は前に出たがりな自信過剰で
完璧主義な子供でした。

常に頭を使い、
他の子の行動も把握。

記憶力も抜群。

グループで作業するシーンでは
必ず仕切って
全体効率を上げていました。

今思えば
相当上から目線の子供でした。

母親にも偉そうな態度をとっていて
本当嫌な子供です。

完璧主義が功を奏して成績は優秀。

運動は全くできなかったものの、

小学生は勉強ができるというだけで
尊敬されていたりしたこともあって
自信たっぷりでした。

そんな私も中学生になり、
思春期真っただ中。

ニキビ肌だったこともあり
容姿も気になるし、

友達はとてもセンス良い
可愛い服を着ているし。

一気に自信がなくなりかけていた頃。

母親は父親とあまり仲が良くなく
毎日のように愚痴を聞かされていました。

私が中学生になったから
もう気にせず言っても良い

と思ったんでしょうか。

父がいないところでは母から愚痴。
母がいないところでは父から愚痴。

私はどちらの言い分もわかる気がしたし、

共に自分の親ですから
身が引き裂かれる思いでした。

これまで学校も家族も何も不自由なくて

「 私の人生最高! 」

という感じで毎日を過ごしてきたのに
それは幻想だったのです。

母親も心を病んでいたのでしょう。

「お母さんもうすぐ死ぬかも知れん」
と言ったりしていました。

また、学校を休みがちな2人の弟たちが
家の中で暴れて遊んでいて。

男2人です。
家の中でチャンバラごっこをしたり。
喧嘩をしたり。

かなりの騒音に
心の中で相当腹を立てていました。

壁には穴が開くし、
家の中は、決して
ほっとできる場所ではありませんでした。

運良く隣に祖父母の家がありましたので
よく避難していました。

この頃、学校の美術の時間に書いた
自分の肖像画の背景には、

どんよりとしたグレーの絵の具を塗り、
魂の抜けたような表情の顔を書いたのを
今でもはっきりと覚えています。

鬱だったと思います。

■ 高校生時代:「受験勉強にすべてを捧げて自信を取り戻す」

高校に入学後は
3年間みっちり受験勉強に励みました。

1年生の担任だった数学の先生が
オリジナルのプリントを用意していて
それを解くのが本当に楽しかったです。

「 数学の面白さを伝えたい! 」

先生のそんな意図で
工夫して作られたものだったと
記憶しています。

勉強する度、努力に比例して
確実にレベルアップしていく実感。

それが大好きだったので
嫌いな教科はあったものの
コツコツと積み上げていきました。

学校内では常に2位をキープ。

とても優秀な1人をどうしても超えられず
1位ではありませんでしたが、
勉強だけをひたすらしていき
確実に結果を出すことで
自分と自信を保っていました。

■ 大学生時代:「勉強という軸を失い、ノリで過ごす」

あまり仲良くもない子に「ガリ勉やしな !」
と、嫌味を言われたこともある私でしたが

第一志望に掲げていた京都大を落ち
別の国立大に
後期日程で合格しました。

その大学には
主席で入学を果たすことができて。

早稲田大学にも既に受かっていましたし、
これまでの自分が
認められた感じがしていました。

お腹いっぱいでした。
燃え尽き症候群というのでしょうか。

入学した学部・学科は

理数が得意だし、
就職にも有利だろう!
これからは情報化社会だ!

と安易な理由で選んだ
情報系だったのですが

入ってみるとそこには
パソコン大好き男子がたくさんいて。

女子は、約120人中8人。

キラキラキャンパスライフではなく、
なんだかモサモサしていました。

周りではパソコン用語は飛び交うし、
設定やプログラミングも既にできる状態。

私はタイピングができる程度、以上。
だったので

周りが凄すぎて
かなり圧倒されたのを覚えています。

大学での講義は教授が一方的に
教科書を読み進めているだけの印象で

何言っているのかもわからないし
質問もできないし、理解もできないし、

本当にどうしようもなくて

一気に挫折感を味わうと共に
今まで何のために勉強していたんだろう。

一体自分は
将来何がしたいんだろう。。。

と、よくある話?かわからないですが
大学受験をゴールにしてしまっていたため

これまで積み上げてきたものが

ガタガタと崩れ落ちていくのがわかり
自分を完全に見失いました。

「勉強」というものを捨てる、

ではないですが

勉強することしか取り柄がなかった私が
心が現状を受け入れるのに
約2か月はかかかりました。

一度「大学をやめたい」と
母に電話したこともあります。

母は否定も肯定もせず、

「やめるならまずは、
就職先を決めないとね。」
と優しく見守ってくれました。

就職氷河期でもあり
当時の心境では就職できる自信も全くなく
なんとか大学は卒業しようと決めたものの

バイトや飲み会に明け暮れる日々。

バイトで稼いで、
欲しいものは買って。

高校生時代はほとんど
友達と遊んだりはしなかったので、

私の大学時代は
まさに青春!って感じで

同期やバイト仲間と騒ぐのが
本当に楽しかったです。

一方で心の中では焦りも感じており、

また夢中になれる何かを頑張りたい、
その何かわからない。

そんなことばかり考えていました。

■ 社会人時代:「熱意を持てずただ過ごす日々と弟の死」

やりたいこともない。

信念も無い。

そんな私は当然就職活動で
何社受けてもうまくいくはずもなく。

私は何社も落ちるのに
同期たちは、次々と
大企業に就職を決めていました。

最終的には
大学に追加募集が来た大阪の会社へ
なんとか推薦で
新卒入社することができました。

その会社も根性なく2年で退社。

当時は会社に対して感謝の気持ちを
持てませんでしたが、
社会人としての知識を教えてくださり

今も連絡を取り続ける仲間も
そこでたくさんできました。

その後は地元に戻り、
すぐに採用が決まりSEとして勤めました。

2年でも社内SEの実績があるからか
新卒の時とは違って、
求められている感じがありました。

しかしその間も、
できる先輩に頼った働きっぷりで
自立心や責任感が生まれませんでした。

仕事はただの業務であり
スキルアップややりがいという所に
自分の気持ちを持っていくことができず、

ただ業務をこなす日々。

そんな私も夫と出会い、
結婚することになったのですが
私の結婚式の1ヶ月半前。

弟が急性不整脈で倒れ
早朝に電話がかかってきました。

あまりに早い時刻だったので

一度目は出ることができず、
すぐ二回目が鳴りました。

「○○○の心臓が止まった!」
電話は母の、声にならない声。

「死んでは無いんやんな?」
とだけ返し、慌てて病院へ。

家族の中で一番皆の話を聞くタイプで
心がバラバラの家族の中和剤のような、

いつも家族の中心にいて
皆に頼りにされていた上の弟です。

救急車で病院に運ばれ、
私が着いた時には

ポンプで強制的に
血液を回していました。

心臓が再び動き出すことはなく、
MRIで脳死が判明。

そこには温かい体の弟が寝ています。
でも脳も心臓も死んでしまった。

私たち家族には
どうすることもできませんでした。

医師にポンプ停止しますよ
と言われた時は、全員きょとんとして、

弟の死の実感を得られないまま
立ち尽くしてしまいました。

医師に促されてようやく
弟の身体にに皆で触れて見守る中、
ポンプを停止。

その時が死亡時刻となりました。

脳が混乱するとはこのことなのか、
皆の涙が出るのにも
タイムラグがありました。

しばらくは泣いて過ごしましたが、
自分の生きることの意味、
そして家族について
真剣に考えるようになりました。

中学時代から鬱っぽくなることも
しばしばありましたがこの時以来、

弟の死がきっかけなのか
夫がいてくれるからなのか
精神的にかなり安定しました。

「与えられた時間を無駄にしてはいけない。」

このことを深く胸に刻んだ出来事でした。

■ 出産後:「家庭と両立できず初めてのパートを退職」

その後結婚式は予定通りあげ、
妊娠出産も難産ではあったものの
無事娘が生まれました。

育休明けには
仕事を続ける気でいましたが、

1歳になったばかりの娘が
めちゃくちゃ可愛い。
まだ保育所に預けたくない!

という想いが募っているところ、
当時の課長から復帰か否かの
確認電話がかかってきました。

「可愛いやろう~わかるわ~
1人目の可愛さは今しかないよ。
このまま退職してもいいよ」

との声に甘えて
あっさりと退職してしまいました。

できるだけこの子と長く過ごそう。
そう決めました。

その後まもなく第2子妊娠も判明。
下の子が1歳くらいには働きたい
と考えていました。

しかし息子は10月生まれ。
年度途中で入れる保育所が見つからず、

無認可保育園に預けて
就職先の実績を作ることに。

実に2年半ぶりの仕事。

パートで積算業務をしていましたが
産後は思ったように頭も働かず、

社長に厳しく怒られる日々。

給与にして月8万円。
当時の無認可保育所が月6万円。

娘のトイトレとも重なり
限界がやってきました。

毎日怒られる、利益出ない、
毎日育児に家事に忙しすぎる、
苦しい...

こんな一生嫌だ...

パートから保育所へ向かうの車で

「しんどい...死にたい...」

無意識に言葉にしていて、
ハッ!としました。

私、そこまで来てる?
やばい。。。

当時はとにかく仕事をしなきゃ
とばかり思っていました。

途中で認可保育所に入ることができ
なんとか7か月間勤めましたが、
保育所の先生の前で泣いてしまい

「辛かったら辞めたらいいんよ!」

と背中を押してもらえて、
逃げるように退職しました。

ですがせっかく入れた認可保育所です。
すぐに次の仕事探しが始まりました。

■ 新たな経験:「個人として稼ぐということ」

前回の失敗があるため、
次は無理なく働ける職場にしよう
と思いました。

勤務時間も9-15時でしたが、
次の場所は10-15時。

たった1時間の差でしたが

ちょっと働いて、
ご飯食べて
ちょっと働いて

怒られることなく帰る。

今まで必死で耐えて
守ろうとしていたものは
一体何だったのだろう
と思うほどのノンストレスでした。

Web制作会社でしたが
こんな短時間勤務が
よく許されたものです。

そこはママさんたちが活躍している
職場でした。

ずっと続けていきたいなと
思いましたが

社内での混乱があり
自らの意志とは関係なく
辞めざるを得ませんでした。

ただ、
残業務が残っておりましたので
在宅で個人として
仕事を持ち帰りました。

PCがあれば在宅でできます。

1改修案件ごとに○円、

というスタイル。
時給よりも割がよく
好きな時間にできますので

一人ですることに不安もありましたが
とても良いお仕事をもらえました。

この時、初めて
自分の見積書、請求書、領収書の
フォーマットを作りました。

個人で稼ぐって
本当に気分が良いです。

自分がサービスを生み出して、
その対価をそのまま受け取る。

この経験が今の自分を作る
きっかけだったのかも知れません。

正社員時代は
自分の生み出した利益以上のお給料を
いただいている感がありました。

それは非常にありがたいことですが、

思考停止に
つながっていたと思います。

■ 次のステップ:「楽しく働ける仕事があることを知る」

在宅で仕事をしている時、
35歳になる年でした。

持ち帰りの仕事が終わってしまえば、
個人としての仕事は終わり。

バイト募集のチラシを見ていると
「募集年齢:35歳まで」
というのが頻繁に目に留まりました。

私ギリギリやん!
と思いました。

そこで、

これまで自分には無縁と思っていた
喫茶店のバイトを始めてみました。

珈琲が好きでしたし、
人生一度は飲食業も体験してみたい
という理由で。

身体を動かしますし
楽しくバイトできましたが

少人数のシフト制だったこともあり
平日の急な子どもの発熱の対応が
難しかったです。

休むと、明らかに他の人に
迷惑がかかっていました。

結局、夫がいる日曜日だけの
勤務となってしまいました。

子どもとの時間が減りますが、
身体もかなり動かせますし

「いらっしゃいませ!」
「ありがとうございました~」

を言ったり

お客様とちょっとした
会話をするのが楽しくて、

コロナで休業する前まで
ずっと続けていました。

■ 現在:「時間とやりがいをもち、自分らしく働く」

このバイトの経験により
楽しく働くことが可能なんだと
知りました。

これまで私がしてきた仕事とは
ただこなすものでした。
その対価としてお金をいただく。

なのにこのバイトは

足が疲れようが、
休日の午前中が無くなろうが
本当に楽しいんです。

この経験が考えを変えました。

バイトを継続しながら
平日に時短社員もしてみましたが
収入は安定はするものの
どうにも心が入りません。

結局、収入よりもやりがいを求めて
今の仕事に就きます。

それが低学年向けの学習塾です。
個人事業主として開業しました。

全く文字が読めないような幼児さんや
足し算がさっぱりな小学生が
日々の積み重ね学習により
確実に成長する姿。

勉強は、積み重ねれば
誰でもいつかできるように、
そしてわかるようになるのです。

それを目の当たりにし
どこか懐かしい、自分の
過去の勉強を思い出します。

高校生時代の担任の先生のように
学ぶ楽しさを伝えたい。

難しい問題に挑戦する
生徒さんを多く育てたい。

一人一人
モチベーションの持って行き方
保護者の協力体制
うまくいく方法といかない方法
が、本当に違います。

うまく行ったとき、
感謝されたとき、

これまで感じたことがない
やりがいを感じています。

子どもたちには

学校の成績のためではなく、
自分らしく生きるための
基礎体力として能力を高めてほしい。

させられている勉強ではだめです。

過去の私のように魂が抜けたまま
働いてしまうことになります。

ですから塾では積極的に、
子どもたちの夢や
日常の話や考えを聞くようにしています。

子どもたちは素直で正直で
大人が考えているよりも
ずっと深くいろんなことを考えていて
聞いていると
本当に驚き・感心の連続です。

そして今では
業務上の負担感もそこまでなく
自分の時間が生み出されました。

貴重な時間です。
無駄にはできません。

子どもたちが帰ってきたら
できるだけ一緒に
楽しい時間を過ごしています。

やっと、
自分らしくなれた気がしています。

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