それが豊かな経験をもたらすと信じて

個別療育を通して、心理士さんから説明を受けた息子の特性のひとつに「見通しが持てないことには取り組み難い」がある。そして、そのことにより、「新しいことに挑戦しづらい」。

当時の私は、見通しが持てるということは、予定が知らされており次に取るべき行動が明確であるという意味だと思っていた。しかし、それだけを意味するものではないということを、療育を受けるなかで知ることになる。その活動とは具体的にどのような内容で自分はそれにどう参加できるのか、というようなことまで含めて、見通しなのだ。

例えば、次はダンスでそのあと歌います、とわかっていても、十分とはいえない。具体的に、ダンスは、こんなふうな場所でこのメンバーでこんな曲に合わせて、振り付けを先生に習うからね。まずは見てみようか、やれそうなら一緒に踊ればいいし、選んでいいよ、次に歌はこの曲で、みんなで歌うんだけど、聞いてみる?最初はみんな歌えなくて普通なんだよ、聞いているうちに歌いたくなったら歌えばいいよ、列に並ぶ?端で歌う?聞いてるだけでもいいんだよ、選んでいいよ、どうしようか相談だよ、等々のやり取りの中で、見通しは生まれる。どのような活動かを知り、できそうな参加の仕方を相談し、合意して、参加する(もしくは参加しない)。それが、見通しを持つということ。

自分にもできる、できた、という積み重ねは自信になっていくだろう。そのためには、参加できるよう仕向ける必要がある。見通しをもつことができれば、挑戦できることが増えるかもしれない。また、もしかしたら不参加を選択するかもしれないが、その決定を尊重してもらう経験は、ひとを信頼することにつながるだろう。そうした繰り返しの中で、少しずつスムーズに行えることが増えていくのだろうと思う。

先日、マフィン食べる?と尋ねたところ、いや…大丈夫…との答えだった。これだよ、と示し、ひとくち食べてみる?と訊いてみたら、うーん、とのこと。そして、疑いの眼で味見をし、あ、美味しい!となって、結局ぺろりとひとつ食べてしまった。マフィンなら、食べようと食べまいとどちらでもいいのだが、学習活動においても、同様のことが起こる。初めて聞くものに対して、やってみたいという気持ちがイマイチ湧かない。知らないこと、わからないこと、初めての体験への、最初の一歩が踏み出せない。じゃあやらなくていいよ、と終えていては、世界は広がっていかない。橋渡しのためのワンステップが必要なのだ。そうやって、食べられるもの、好きなこと、好きなもの、楽しめる活動等が増えていけば、人生はより豊かになるだろう。

見通しをもてないままに、やればできるとごり押して、不安なまま怯えながら活動に参加させてはいないだろうか、また、配慮と称して、活動を免除するだけになっていないか。合意を取り付けることは、ときに面倒だ。急いでいるとき、ついそのひと手間を省きたくなってしまう。だから何度も自分に問う。本人とちゃんと合意しただろうか。見通しを持たせる努力を怠ってはいないだろうか。

信頼できるひと、場所が増えていくこと、見通しを持たせてもらい、安心して様々な学びの場に参加できること、そうして本人の世界が広がり、日々を豊かなものにしていけること。それを願いながら試行錯誤の毎日である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?