第1回 吃音を深める会「私の吃音歴」(8/29)レポート

つい先日第2回の告知をしたところではありますが、今更ながら、第1回「吃音を深める会」の報告をさせていただきたいと思います。
第1回のテーマは「私の吃音歴」で、8/29(土)にzoomにて開催いたしました。参加人数は主催者含め6名でした。参加者は全員20代~30代で、1名は非吃音者でした。1名は途中退出されたため、5名の参加者から「私の吃音歴」を語っていただきました。個人の話が中心だったため、あまり詳しい内容はここでは共有いたしませんが、各参加者から語っていただいたお話の中で、深め甲斐がありそうだなと思ったことをピックアップしていきたいと思います。

Aさん

①他者から置き去りにされている感覚
 ほかの人が当たり前にできていることが、自分にはできない。自分がことばのことで悩んでいる中、ほかの人はもっと高度なことで悩んでいる。自分とほかの人との間では、そもそも世界の見え方すら違うのではないか。そして、それによって失われた人生の経験値が、今の人間関係に影響しているようにも思う。

②どもり方について
 自分にとって、どもることは、自分の言葉が内側に押し込められていくような感覚だ。特に自分が怖いなと思う人と話す時は、喉に重い蓋のようなものがあって、その蓋を必死で押しているような感覚になる。やっとの思いで蓋をどかせても、そこで出た声は震えていたり、弱々しかったりする。でも、緊張があまり伴わないどもりもある。そういうときはまた全く別の感覚。

③同じ吃音者だから分かり合えるのか
 吃音であることが当たり前である自助団体の風土には救われたが、同じ吃音者だからといって分かり合えるとは限らないという実感もある。いろんなマイノリティと触れ合っていく中で、自分が分かり合える仲間を見つけていきたい。

Bさん

①吃音とは何か
 吃音の研究者の先生から、「あなたは吃音じゃないよ」と言われたことがある。自分でも、自分が吃音なのかどうなのか分からない。専門家は、ある人が吃音かそうでないかをあっさり判断するが、果たして吃音の定義とは。

②症状を隠してしまう
 ある時から、吃音の症状を隠すことに意識が向くようになり、人との関わり方も変わっていった。大人や先生に対しても壁を作り、相談ができない。隠せば隠すほど、自分の背中の荷物が増えていくような感覚。

③吃音を感覚的に表現する
 「きつ音は薫ちゃんのガラスの靴」という本がある。吃音をシンデレラのガラスの靴に例え、ガラスの靴はなくても生きていけるけど、靴がなかったらシンデレラは王子様と結ばれることはなかったという風に、吃音があるからこそできた体験や、出会えた人がいる、ということが表現されている。吃音はどうしても医療的な文脈で捉えられやすいが、このように感覚的に表現することもできると思うし、小さい頃にそのように吃音を理解したかった。自分自身も絵を描いたりして、感覚的に吃音を表現したい。

「きつ音は薫ちゃんのガラスの靴」については以下のURLを参照
http://www.isahaya-snet.ed.jp/school/e-isahaya/e-isahaya/a%20school%20year/hp/kotoba/kotoba.html

Cさん(非吃音者)

①悩みが違っても重なる部分はある
 身内に吃音者がいる。また、自分には吃音はないが社交不安症がある。自分には、言葉が出ないという感覚はあまり分からない。本当のところを分かることもできないとも思うが、悩みが違っても重なる部分はあると思う。

②弱さで繋がる
 弱さを知ることでできる関係性もある。吃音のある身内に対して、自分も「何でできないの」と当たってしまったりしたが、自分の生きづらさと向き合っていく中で、それが身内を傷つけていたのかもしれないということに気付いた。他者の体験を知る事で他の問題にも繋げて考えられるように思う。

③名前のない生きづらさ
 生きづらさに名前をつけて、型に当てはめてしまうと見えなくなることもある。そういった、名前で言い表しにくいような生きづらさについても、今後考えていきたい。

Dさん

①吃音について考えることの楽しさ
 吃音の研究をする中で、吃音を取り扱った作品に触れたり、自分の吃音を客体化して捉えるようになった。考えることの楽しさや面白さを知る中で、自分の症状も薄らいでいった。

②吃音を取り扱った作品
 数ある作品の中で、重松清のものが印象的。多くの場合、吃音を取り扱った物語にするときに、吃音は単に心理的側面の現れとして表現されやすいが、重松清の作品は、吃音の複雑な側面を複雑なまま受け止めて表現してくれているように思う。

③自助団体の課題
 自助団体に興味がある。自分が通っているところは、吃音以外の話をすることが多いなという印象。自助団体にはどんな課題があるか。
 Aさん 吃音の話が深まりきる前に、吃音を話題にするのが飽きられてしまうような印象がある。また、自分たちの当事者性を置き去りにして、他の吃音者の支援の方向に活動が向かうこともあるが、まずは自分たちの当事者性をしっかり深めたいというのが本音。
 Bさん せっかく良い知見が生まれても、後に継承されないというのが課題。自分のことが解決したらすぐに去ってしまう吃音者が多いのでは。 

Eさん

①恥ずかしいという意識
 小学生の頃、自分のことばが出てこないのは吃音が原因ではなく、話すのが「恥ずかしいから」出てこないのだという認識だった。ただ、その頃はおとなしくて、恥ずかしがっている方が周りからかわいがってもらえる、という意識があった。

②症状の程度と悩みの深さ
 初めて他の吃音者と出会ったとき、見かけの症状だけで「この中で自分が一番苦しんでいる」と、内心ではマウンティングしていた。だが、いろんな吃音者と接しているうちに、必ずしも見かけの症状が悩みの深さに比例するわけではないと分かってきた。

③自分の中には他の障害もある
 自分は過去にチック症候群があったり、今でも強迫性障害があるが、他の人はどうなのか。
 Aさん 物事の関心が偏っている、ケアレスミスが多いなどの発達障害の傾向を感じることがある。また、例えば、吃音が原因で話すのを恐れて集中力が落ちたり、物事を先延ばしにしてしまったりするなど、結果として発達障害的な症状のようになってしまうことがある。
 Bさん 全てを把握しないと気が済まない気質がある。精神的に鬱・無気力になる日がよくある。
 Dさん 精神的に不安定で、臨床心理士に相談することもある。発達障害の知り合いから、「Dくんは発達障害の気質を持っている」と言われたことがある。

主催者の感想

 第1回からいろんな話が出てきて、全然時間が足りなかったな、というのが正直な感想です。でも、ここまで吃音のことをしっかり語り合ったのはかなり久々だなという感覚で、こういう会がようやくできたなと、個人的には感慨深かった部分があります。
 会のコンセプトとしては、吃音のことについて話しつつ、その周辺のことも深めていきたいというのが元々あったので、今回、吃音ではないマイノリティ性を抱えている人が参加されたり、他のマイノリティに関心がある人が多かったというのも良かったなと思います。次回以降、そういう話も深掘りしていきたいですね。 
 加えて、今回のキーワードとして吃音の「表現」や「感覚」についてもよく挙がっていた印象です。やはり吃音が障害として分類されている以上、医学的な用語で説明されたり、社会福祉的な観点で見られることが多いのは必然的ではありますが、今回の語り合いを通じて、個人の主観や感性に寄り添った吃音の説明のされ方が、もっと普及してもいいのかなと思いました。誰かに規定されるのではなく、自分なりに吃音を意味づけ、あるいは自分なりに吃音について思考することや創造することを楽しむというのも、吃音受容の一つのあり方ではないでしょうか。吃音を深める会では、そういったことも目指して、ある種の「楽しさ」を追求しつつ、吃音を深めていきたいと思っています。
 次回は先日告知したように、「家族を考える」ことをテーマとします。11/15(日)に大阪市内で開催しますので、興味があれば、お声かけください。ありがとうございました!

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