【自己紹介】児童養護施設で育った、私の事
こんにちわ、玲です。
児童養護施設の記事をご覧いただいた方ありがとうございます。
当時の出来事の記憶は、当時の心境からくるのかあいまいで欠落している期間も少なくはない。
同級生のいじめ、母からの暴力、父は知ってか知らずか家庭に関与したがらない。色々あって警察にお世話になって児童養護施設に入った先でも、施設内でのいじめがあった。そんなちょっと変わった私の半生をこれからも書いていきたいと思っている。
今、いじめや暴力で悩んでる人、娘(息子)への接し方に悩んでいる親たち、のいい未来へ向かうためのきっかけになればいいな、と思ってる。
児童養護施設に入る前は一般家庭で、父・母・私・弟、の4人家族だった。
父は朝から夜遅くまで仕事、母は専業主婦。
裕福ではなかった。小さな2DK?の平屋の賃貸アパート。築40年以上は立っていたと思う。トイレがぼっとん便所だった。
※ぼっとん便所がわからない方は検索してみてね。
(貼り付けようかと思ったけど、きれいではない画像だったのでやめた)
10棟くらいの平屋が繋がっているよく言えば古風な見た目だけど、壁は酢中部だったしお風呂は外付けされたガス?をつけて沸かす系のやつ。湯舟は上半分はあっついけど、下半分は水!冷たい!ってなるやつ。
ボロボロのお家だった。
小学校は子供の足で歩いて30分くらいのところの小さな学校だった。
1クラス30人、1学年2クラス。学年ごとに名札の色が違ったんだっけ。
でも、小学校は嫌いだった。いじめられていたから。
小学校の頃の出来事(後日また記事にしたいと思います)で、警察にお世話になった私は、一時保護所で過ごした後、岸和田学園という児童養護施設へと入所することになった。
高校卒業するまでは居られる施設で、高校卒業後は親元に帰ったり、一人暮らしを始めたり、様々な道があるようだった。
高校卒業後、父に引き取られた私は、右も左もわからない土地でいきなり職を見つけて稼がないといけないという環境だった。
仕事を見つけてしばらくは平和に生活をしていた。
ある日突然、父から「一人暮らしをしろ」と言われるまでは。
そこから一人暮らしを始めて、環境がガラッと変わって心がついていけず、心が完全に疲れてしまった。
布団から出られなくなってしまった。
涙も止まらず、つらいけど何がつらいのか、わからない状況だった。
仕事にも行けず、数日休んで、知人に相談したところ、心療内科で診てもらったほうがいいのはないか、と提案があった。
そこで診断されたのが、「適応障害」と「躁鬱」だった。
初めて聞く病名にただただ戸惑うばかりだった。
カウンセラーの人に言われるがまま役所で手続きをして、仕事もやめて。
残ったのは「生活保護」だった。
しばらく生活保護受給しながら、劣等感と焦燥感と不安と戦う毎日だった。
元気だった時に買ったノートパソコンと、家を借りたときに同時契約をしたインターネット回線だけが、私の気分転換になるものだった。
当時は今ほどインターネットでできることが充実しているわけではなかった。
ニコニコ動画でポーションを作ってみたという動画が面白い、と騒がれる世代。
そこから、心境の変化?なのか、地元:大阪にはいたくないと感じるようになって、府外へ引っ越した。
片道切符で、もう戻ってこないと心に決めて歩いた梅田駅はとても広く見えた。
夜行バスで揺られて、ついた先は、大分。
そう、湯布院で住み込みの仕事を選んでみた。
大阪とは真逆で山に囲まれて、緑・緑・緑、の土地。
よく私を採用してくれたなぁ、と今でも思う。フランクな社長だった。
当時の私は、病気もちで他人の事をまっすぐ見れず、フランクな社長の事も、いい印象は持てなかった。でも、ここにすがるしかなかった。
田舎での生活は、思っていたよりも不便で、だけど、心穏やかに過ごせた。
不思議な職場で、ハプニングトラブルが絶えなかったけど、そこで人間という生き物の、いいところ悪いところが見えた気がする。
私の考え方を変える人物との出会いもここだった。
友人だけど、戦友の人物との関わりで、もう一度楽しく生きてみたいな、と思った矢先に、当時付き合っていた恋人と続けていくことに未来が見えず、お別れをして、しばらくして出会った3つ年上の男性とお付き合い。
熊本在住の人で、優しくてサプライズが好きな人だった。同棲の話が出て、浮足立った私は、すぐに荷物をまとめて引っ越しをした。
ところが、ふたを開けてみれば、クズ男だったのだ。
家の中はゴミだらけ、外ではいい顔するけど、家の中では暴言罵倒・DVなんて普通だった。
楽しく生きてみたいと、思った気持ちがまた折れてしまった。
DV彼氏から逃れるように、引っ越しをして、数年。
今に至る。DV彼氏から家を出る際、賃貸契約がばれて、軟禁されそうになった話もある。
思慮が浅かったといえば浅くて、自業自得といえば返す言葉もない。
けど、多感な時期に経験した出来事が、今を作っているんだなと思っている。
必要以上に他人の顔色を窺ってしまうし、自分に向けられた言葉に対しての理解力。利用しようとして近づいてくる人に対しての警戒心の薄さ。
こんな人生を送ってきました。
傷だらけになって今まで生きてきた。
今も幸せかと聞かれたら、YESとは答えられない。
こんな経験をしたからこそ、当事者目線で話せることも、
伝えていけることもある、と思いたいから、
書いていきたい。
今悩んでる人の話し相手になりたい、と思っている。
誰にも言えなくて、心に抱えるのがつらいのは、誰よりも知ってる。
でも、生きるのを辞めるのは、違うんじゃないかなって。
次からはこの送ってきた人生の出来事一つ一つに焦点を当てて書いていきたいと思う。
よかったら、また読みに来てくれると嬉しい。
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