「生」「死」
生きる希望、生きる理由、そういう話は人間が文字を持つようになり、文字が覇者の功績を記録したり、偉大さを後世にも轟かせたい思いから、壁画に刻まれ始めて、その後、段々と識字率の上昇と、表現の自由と、思想の自由とともに、こうして誰もが語ることができる世の中になってきて、それでもなお、「生きる」という事について文書は尽きる事がないし、人が生きる限り、これは続くのだろうと思う。
いかなる本を読んでいても、バッドエンドであっても、生命はその中心である。いくらみんなが全員、ゾンビに食われて終わってしまっても、見ている本人達は、その中で自らの「生」を感じることができる。いくら死を語っても、最後には「生」を感じる材料にしかならない。地獄を語っても天国を語っても、最後には「生」で終わるのである。
「死」を想像しても、それは想像できないのだろう。無を想像する、という事がどういうことか、どこを探しても出てこない。もちろん、世界中探したわけじゃないけれど、「生」についてアレコレの話はあるが、「死」を知ろうとしても、どこにも出てこない。「死後の世界」は、言い方で「死後の世界の生き方」なわけで、いくら地獄に行っても、地獄で「生きる」のだ。この世が地獄であり、死んだら天国に行ったとしても、天国での「生き方」がある。
不条理を説いても、生きていることによる不条理、「生」における不条理、永劫回帰についても、どの時点であっても同じように在るであろうという「生」を前提にしている。
なんなら、全てがよりよく生きることが前提である。より悪く生きるというのは、何なのか。何をもって悪く生きるのだろうか。悪いとは何だろう。「悪」とは、何だろう。殺戮を繰り返すアフリカの独裁政権の独裁者は悪だろうか。自国の内戦を他国から見ている大統領は悪だろうか。これらが悪だとして、それは一体何のことを言っているのだろう。その「悪行」をしている人間の「生」とは、いったい何なのだろう。世界の貧しい地域で、吹き飛びそうな小さな命の火を、自らの命の火をかけて守り、救済している人が、故郷から遠く離れたところで銃撃によって殺されている。守ろうとして、守っていた命とは全く関係のないところにいたその人は会えて、自らの命を賭して、その風前の灯火である小さな命のあかりを、消さないようにそこに赴いて、それで殺される。彼は「善」であるとして、勲章をもらったとして、彼は、その「生」に何を感じたのだろう。「死」は彼に何かをもたらし、感じさせたのだろうか。
よく、最近は「死」が身近で亡くなったという。乳幼児の生存率が格段に上がり、老人は長生きし、命を奪う様な盗賊は減り、戦争は効率的になった。略奪行為はまだ世界中にあり、難民は後を絶たないが、それでも「死」は遠ざかったという。
「生きているけれど、あれじゃ死んだも同然だ」という言い方もある。息をして、心臓が動いていても、「死んだと同じ」という。では、「生」はどの時点で「生」なのだと思っているのだろうか。何をもって「生」を定義しているのだろう。なにが「生」と「死」の間のグレーゾーンはあるのだろうか。生命維持装置につながれている人、脳死と判断されているが、心臓は動いている人、この人達の「生」と「死」は何処にあるのか。その人たちと、戦場で勢いよく飛び出していき最初に射殺された若者の間に、生と死の差はあるのだろうか。飛んでいる鳥を打ち落とし、その鳥がこれから見たかもしれない世界を絶つことと、殺人者を死刑に処して、その殺人者がこれから殺したかもしれない人々が助かる、この二つの間に「生」と「死」は、どうかかわるのだろうか。
私たちは何処まで行っても、「死」を認知することができない。私は、鬱病で死にたい、と思っている人の気持ちが少しわかる。自分も、自殺未遂を起こしたことがあるし、1度ではないから。あの時に一番感じるのは、「死」ではなく、存在に対する否定なのだ。その手段が「死」であることが多い。「死」というのは、一つのツールなのだと。
だから、もし都合よく記憶を消す事ができる機械があって、フラッシュバックが起こる部分だけ特定して、記憶を消したり、存在に対する否定を引き起こす認知を根こそぎ取ることができれば、自殺する必要はないかもしれない。
「生」に答えを見つける前に「死」が訪れることは、殆ど人間がわかっている事だろう。「死」に取り憑かれるのは、ある意味「生」に振り回されることに似ている。ニーチェが、「ツァラトストラかく語りき」で、最初に綱渡りの例を出しているが、ニーチェが言わんとすることはともかく、私たちはこれに似ているかもしれないと思った。小窓をでたら、一本の縄しかない。いつでも、落下することができるが、なぜかそれを私たちは拒む。目の前にある、塔に近づこうと必死にバランスを取って前に進む。後戻りはできない。綱は、他人の手出来られるかもしれないが、それを疑っていても、綱は強くなるわけでも、太くなったりはしない。落ちたら終わり。逆に、この緊張感に耐えられなければ、落ちれば、その綱渡りを終えることができる。
綱渡りを諦めれば、いつでも辞められる。落ちた人が、また綱渡りに上がってきたという噂話は聞くが、それを実際に見たという確信はない。もっと言えば、綱から落ちたらどこに行くのか、誰も知らないし、下を見たとたん、落ちてしまう気がして、よく観察ができない。観察してる間に、落ちた人は五万といる。
なぜ、綱渡りを辞めようとしないのだろう。なぜ、生まれたら生きるのだろう。宗教で言われる話やおとぎ話や、神話で納得することは出来ない。これは、無いものねだりの極地なのだ。
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