早川沙織からの手紙 #23
科学館2
こういうのは、早めにいったほうがいいと思い、チケットを譲ってもらった日の夜に電話をした。
沙織は「科学館?」と拍子抜けした様子だったが、べつに嫌というわけじゃなくて、よろこんでOKしてくれた。
「日曜に現地集合でいいか。ぼくは路面電車で行く」
「せっかくだし、中央駅で待ち合わせしましょう」
「いいけど、なんでだ。沙織の家からだと科学館のが近いだろ」
「デート気分を味わいたいのよ。将樹は、わざと遅れてきて」
「よくわかんねーな。遅れて来いといわれたのは、はじめてだ」
「あと、帰りにレストランで食事ましょう。近くで、いいところ知ってる」
「高級なのじゃないだろうな。あんま高いところは勘弁な。今月、金欠なんだ」
「大丈夫。雰囲気のいい洋食屋さんだから。2000円でお釣りあるわよ」
ぼくとしては、庶民的なラーメン屋やカレーハウスがいいのだけど、そういうところは沙織は行かなさそうなので、どうしようかと悩んでいたところだ。食事をする店を探す手間が省けるのでとても助かる。
◇ ◇ ◇
日曜は、梅雨の谷間みたいによく晴れた。
ぼくは、いわれたとおり、約束の時間に遅れて行った。
駅前には、夏の日に子供たちが入りたくなるような小さな噴水がある。私服姿の沙織を見つけた。
「ちょうどいい時間。ぴったり10分、遅刻ね」
沙織は、白のフリルのブラウスにチェック柄のミニスカートで、艶々の黒髪を紫のリボンでポニーテールにしていた。手には可愛らしいミニバッグを持っている。来るまえに美容室に寄って来たみたいにナチュラルメイクをしてた。
(科学館に行くのに、めちゃくちゃ決めてるな)
ぼくは、いつも通り、半袖のシャツにジーンズで来たので、正直、沙織の格好を見てビビった。
普段の清楚なお嬢さまのイメージとは逆というか、制服姿だとひざ丈なのに、大胆なミニスカートから伸びた色白の美脚がまぶしくて、とても艶めかしい。沙織は胸は小さいけど、スラっとしてて全身のバランスが良くて、あらためて特上のルックスに圧倒された。
「めちゃくちゃ可愛い。つーか、すごく似合ってる。服も、ポニーテールも全部。メイクして、学校と別人みたい」
「知ってる。将樹の目を見てわかった」
「ぼくの目?」
「私を見て、ギラっとしてた。エッチな目」
沙織は、両手でミニスカートの裾を押さえるようにして、照れくさそうにはにかんでいた。
その姿が、初々しくてグッと胸に刺さる。
「してたかな」
「将樹、ギャルっぽいファッション好きでしょ。思い切ってミニスカートにしてみたの」
「……誤解なんだけどなぁ」
よくわからないけど、沙織の中で、ぼくはギャル系が好きだと認定されてるみたいだ。これは完全に誤解で、ぼくは普段の沙織みたいな、落ち着いた感じが好みなのに。
「将樹がはじめて誘ってくれたデートでしょ。おどろかせようと思って、気合いを入れたかったのよ」
「はじめてだったか」
「そうよ。いつになったら誘ってくれるのか、ずっと楽しみに待ってたのよ」
「そっか。なんか悪かったな。いろいろ準備も大変だったみたいだ」
いわれてみれば、フードコートもカラオケも、沙織の誘いだった気がする。放課後には一緒に帰っているので、毎日デートしてるみたいな感覚だった。
「ポニーテール、祭りの日のみたい。リボンも、あのときのだよな」
「気に入った? 学校でも、この髪型にしてほしいならするけど」
「……やめといたほうがいいと思う」
「どうして?」
「ほかのヤツに、沙織のポニーテール姿を見せたくない。また、いろんな男が声をかけるだろ」
「わかった。学校ではしない。将樹とデートするときだけ」
「うん。それがいいよ」
自分のわがままを押し付けたみたいで、むずがゆい。
さっきから、周囲の男たちがチラチラと沙織のことを横目で見ている。ただでさえ目立つのに、これ以上に可愛くなったら、ぼくの手に負えなくなる気がする。
「すごい日差し。日焼けしそう。早く行きましょう」
「う、うん」
電車乗り場で、猪野島行の路面電車に乗りこむ。
ドアと座席の角に、金属のポールを掴んで、ほかの乗客から沙織をガードするようにして立った。
沙織は口もとに笑みを浮かべるようにして、ぼくを見てた。
「なんだよ。にやにやして」
「べつに。将樹が、いっちょまえに彼氏ヅラしてるなーっと思って」
「悪かったな、彼氏じゃなくて」
「科学館なんてひさしぶり。小学校の遠足以来かしら。だいたい、映画とか遊園地が多いの」
「まるでよくデートに誘われてるみたいだな」
ぼくの冷やかしを、沙織はあっさり聞き流していた。
「逆にセンスいいかも。広くて展示物が多いし、高校生になって得られる知識も変わるでしょ」
電車に揺られながら、沙織は、ぼくのシャツを指でつまんで引っ張る。
そういう、なにげない仕草もすごく可愛く思える。
(このデートをきっかけに、返事をもらえたらなぁ……)
と、ぼくは淡い期待を胸に考えていた。
科学館は、市の文化施設が集中している区域にある。
近くには、県立美術館・市立図書館のほか、総合体育館やサッカースタジアムがあり、すこし離れた北には初詣でにぎわう護国神社がある。
中央公園前で下車して、タイル張りのおしゃれな歩道を歩くと、銀色をした巨大な球体が特徴的な大きな建物が見えてくる。球体部分だけで直径40メートルぐらいはある。土台部分のビルと合わさって、先進的なロケットのように見える。かなりエキセントリックなデザインだ。
こんな立派な科学館が、よくうちの市にあるもんだと思う。建設費だけで、かなりかかってるはずだ。
館内はガンガンにクーラーが効いてて、すこし肌寒いぐらいだ。
1Fには、インフォメーションセンター・レストランのほか、物販コーナーがある。
お目当てのプラネタリウムまで時間があるので、ぼくらはエスカレーターで5Fに上がり、宇宙ゾーンの展示スペースをブラブラと見て回ることにした。
最新の、銀河や星団、星雲などを映した写真やビデオのほか、太陽・火星・地球・木製などの惑星を、実際の縮尺に沿って並べた模型、実物の宇宙服。大型モニターを使って直感的に遊べるスイングバイのゲーム。火星に生命体はいるのか? という定番コーナーから、子供たちに人気の、無重力を疑似体験するゼロ・グラビティ、とかいうアトラクションもある。
イベント会場では、研究者っぽい若い男の人が、『シュレーティンガーの猫』について、親子連れの小中学生にかみ砕いて講演をしていた。
密閉した箱の中に、生きた猫と一緒に、50%の確率で原子崩壊する放射性元素とガイガー計数管・青酸ガスの発生装置を入れて、1時間後にどうなっているかという思考実験だ。本当にやるわけじゃない。
「量子力学だろ。子供にわかるのかな」
「理解する必要はないのよ。子供たちに興味を持ってもらうのが目的でしょ」
「ふーん。そういうもんなのか」
「シュレーティンガーはオーストリアの人なんだ。私も名前は聞いたことある」
「箱を開けるまで、猫が生きてるか死んでるかわからないんだよな。見なくても、決まってそうなのに」
重ね合わせの状態で、観測することではじめて状態が確定する。量子力学独特の考えだ。
研究者の人は、似たような実験で『二重スリット実験』があると、モニターを使って解説した。
電子銃の前に二枚の板を置いて、前方側の板に隙間を二つ作って、電子を一つずつ飛ばす。すると後ろの板に干渉した縞模様が出来る。電子は波の性質があるのがわかる。
おもしろいのは電子の様子を観測するために観測機を置くと、縞模様が消えて二本のスジが残る。電子は振る舞いを変えて、粒子になったってことだ。
「観測器が電子に影響を与えたんじゃないのか」
「どんなふうに?」
「わからないけど、普通じゃないだろ。未来の選択が過去の事象を変えるとかさ」
二重スリット実験のバリエーションで、『遅延選択実験』というらしい。電子を飛ばしたときは波の性質のはずなのに、観測機のスイッチを入れると粒子に変わる。通常の因果律では考えられない結果だ。未来の選択によって、過去の振る舞いに影響を与えてる。
極端な例として、大谷翔平選手は、努力したのでメジャーリーガーになったのではなく、メジャーリーガーになる未来があったので努力したということになるらしい。
そこから導き出されるのがブロック宇宙論で、現在を感じるのは人の意識によって生み出される主観的なもので、時間は静的で物理的には特別な瞬間は存在せずに、過去・現在・未来は等しく、同じ空間に無数に連続してあるという理論だ。
順番にジャンプしているので、人間の意識は、あたかも時間の流れが存在しているように感じる。ちょうどパラパラ漫画のように。
この理論が正しければ、ものすごいコンピューターを使って未来のブロックを観測することで、高精度の予知が可能になる。そんな夢みたいなコンピューターがあればの話だが。
「ますますわかんない。未来はすでに決定されてるとかさ。まるで哲学だな」
ぼくは隣を見た。
沙織は、熱心に聞き入ってた。
よっぽどツボにハマったらしい。
普通の女子高生は、量子力学に興味を持たない。沙織が惹かれたのは、物理学的概念ではなくて、ブロック宇宙論において、人間の自由意志はどのようにして存在するのかという、内省的な疑問なのかもしれない。
邪魔をすると悪い。
「ちょっとトイレに行ってくる」
と告げて、ぼくはその場を離れた。
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