「推し」またの名を「好きな人」

この世には、いろんなかたちの好きがある。
だから、誰かに等身大の好きを伝えようと思ったとき、その「好き」をそのまま持ち、そのまま表現するには複雑すぎて難しい。それゆえ人は様々に解釈し、名前をつけ、分類した。そのうちのひとつが「推し」なのではないかと私は思う。

私は「好き」の区別の壁が薄い。それゆえ、いわゆる「推し」のことを脳内では「好きな人」と名付けている。
でも私は無意識的にこれらを使い分けている。一体この違いはどこにあるのか気になった私は、「推し」と「好きな人」の区別について考えてみることにした。

まず「推し」と言った場合。
そこに私自身が入る隙間はない。私が自分自身を好きか否かに関係なく「推し」はそこに存在する。
私たちが推しを語るとき、推しのどこが「好きか」よりも、推しのどこが「素晴らしいか」を語ってしまうことが多いように思う。つまり、私たちが「推し」を語るときは「推し」を「推し」として語るのであり、「推しを好きな私」を語るのではない。主体が「推し」に置かれている点で「推しを推す」というのは受動的な行為である。

一方「好き」と言った場合。
それは私なしには存在し得ないものである。
私たちが好きな人を語るとき、「どこが好きか」を語ることはそのまま「私が何を好むか」を語ることにつながる。好きな人について話すとき、「好きな人自身」を語っているようでいて実際は「その人を好きな私」を語るのである。主体はこちら側にあり、私が何かを好きでいることは能動的にしかあり得ない。

もちろん、一概にこうだと決めつけられるものではない。「好き」に様々なかたちがあるように「推し」にも様々なかたちが存在する。どこかでそれらが交ざる人も交ざらない人もいる。
大切ことはどんな言葉を選ぶかではない。目の前の人と、楽しいコミュニケーションを取ることである。

人間はいろんな言葉を扱って隣の人と心を通わす、のかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?