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鬼は外 (110)

鬼に金棒、鬼の目にも涙、鬼の居ぬ間に洗濯など、鬼にまつわることわざはたくさんある。鬼の起源は色々な説があるが、最も有力なのは、”何かわからないものの恐怖を表したもの”ではないだろうか。今よりも科学や化学が発展していない時代において、人間に理解出来ないものがたくさんあっただろう。地震はもちろん突然の嵐や雷などの自然災害については、規模が大きいので何らかの神様の仕業と考えたかもしれない。しかし夜の暗さの恐怖や疫病、不眠や突然の病などそういった日常のものは、鬼の仕業としたのでないだろうか。今回はそんな鬼について、少しだけ煮込んでみたい。因みに全て憶測であり妄想のようなものであり、何らかの宗教に心酔しての考えではないと断っておく。

鬼のパンツはいいパンツ。はたして本当にそうだろうか。想像する”鬼”なるものは、体が大きく筋骨隆々でワイルドな風貌をしている。そんな鬼が履くパンツなわけだから、破れないよう丈夫な虎の毛皮で出来ている。虎の毛皮が本当に丈夫かどうかはさておき、とある文献には5年履いても10年履いても破れないとしてあるのでそうなのだろう。しかし常識的な人間は同じパンツを5年も10年も履きたいと思わないのではないだろうか。パンツなどというものは、いかに丈夫だとしても定期的に取り替えて新しくしたいと思うのが人の常である。成人した人間ならなおさらそう思うであろう。では子供はどうか。子供なら丈夫なパンツで良いのではと考える方もいるかもしれないが、そうではない。子供は成長する速度が早いので、同じパンツを5年どころか一年も履いてたら窮屈でしょうがないのではないか。以上の理由から鬼のパンツはいいパンツというのは幻想であり、虚偽であると理解いただけたのではないだろうか。

人間が鬼になる場合もある。悪鬼(※”あっき”と読む。”あっきー”など可愛いくと伸ばしたりしない)などと言い、嫉妬や怨念などの悪感情により悪霊となり、鬼の姿へ変わったものである。それにしても不思議なものである。人間子供のうちはみんな等しく可愛く無邪気なものだが、それが成長すると何故かおかしくなってしまう。これは人間と人間社会の欠陥なのだろう。人は環境によって鬼のようになることがある。その鬼は誰にとっても鬼な訳ではなく、鬼になれる場所を選んでいる。その場所では鬼だが、別の場所では猫撫で声で甘えていたりもする。また歳をとると説教臭くなる人がいるが、言ってみればあれもある種の鬼の仕業だろう。筆者は気をつけているつもりだが、もしかしたら心の何処かに何らかの鬼が住んでいるかもしれない。

鬼は外、福は内。身の回りのあまり良くないものを鬼、良いものを福とする。良くないものを外に出し、良いものを内に入れる、当たり前のことであるがなかなか出来ることではない。人間は環境に適応する能力が優れているので、良くないものも適応してしまうのだ。難しいのは鬼にも鬼の生活もあり、鬼からすると攻め込んできた桃太郎は鬼より怖かったりする。とはいえ全ての立場を尊重し過ぎてもまとまらない。我々煮込む人々に出来るのは、犯罪やそれに付随する何かを、己の理性で制御することだけなのかもしれない。

この連載は±3落語会事務局のウェブサイトにて掲載されているものです。 https://pm3rakugo.jimdofree.com