見出し画像

「愛するということ」を読んで

過去の恋愛観と、本との出会い


1956年に出版されたドイツの心理学者エーリッヒ・フロム著の「愛するということ」。先月一人旅で訪れた長野の宿で出会ったこの名著はこれまで深く考える機会のなかった「人を愛する」という身近でいて壮大なテーマにじっくりと私を向き合わせ、人生観に大きな影響を及ぼすバイブル的な一冊となったので、自分のこれまでの経験や価値観と照らし合わせながら、具体的に何がどのように自分の心に響いていったかを書きとめていきたい。

ちょうどこの本を見つけた時の私、いや、この10年くらいの私は「愛」というテーマに対して漠然としたモヤモヤを抱えていた。社会人になってから10年以上の月日が経っていい大人になり、人間関係の中の恋愛という分野に関してもそこそこにいろいろとあったが、未だに自分らしい恋愛、自分が納得のいく恋愛、心が幸せな恋愛ができていない感覚があった。そんなものできる人の方が少ないと言われればそれまでなのだが、恋愛中の私はいつも不安や疑いの気持ちと戦っていたり、心のどこかでこの関係は違うんじゃないかと別のことを考えたりしていて、なんと言うか総合的にしっくりきていなかったような気がするのだ。そんな私にも、いつの日か自然と"タイミング"が訪れ、最適な相手が現れ、なるほど!本物の恋愛とはこういうものだったのか!と腑に落ちるんじゃないかという根拠のない希望的観測をしながら、その日を待っているような感覚で過ごしている期間が、振り返るととても長かったように思う。それに対して自分ができることはほとんどない、という前提のもと。

そうやって会いもしない誰かのアクションに対して何かを期待している一方で、頭の片隅には別の考えも存在していた。そもそも自分の恋愛の軸が常にブレブレで行動が定まらず、行ったり来たり迷走しているようなもどかしさがあり、そういう自分に自分が疲れてきている。それ自体がモヤモヤの根源ではないか?と。恋愛とはそういうものなのかもしれないが、軸と言うか、芯となる考え方が弱々しいがゆえに自分の言動にあまり自信が持てず、なかなかつかめていない感があった。

では、恋愛以外で言えばどうか?
30代になり、自分なりに失敗と成功の経験を積んで芯が強化されてきたのか、最近の普通の日常では自分の軸がブレるという場面にあまり遭遇しなくなった。正解か不正解かなんて分からないが、たとえそれが失敗となったとしてもそれは何かの始まりであり、貴重な経験となって必ず次へのステップへ紡がれていくのでそれはそれで良いのだ、と割り切れている。ある程度は胸を張れる信念がある。

だからこそ、余計にもどかしい。仕事なら、友達なら、他の人間関係なら自分の信念に基づいてもっと迷いなく、うまくやれるのに。こんなに悩まなくていいのに、と。

これまで私の恋愛観は、恐らく世のたくさんの女性と同じように、「愛される」ことに価値を置いたものだった。「女性は愛されてなんぼ」と人はよく言う。「相手にどれだけ尽くされるか」にまつわる話も身の周りに溢れ返っており、女性の幸せとイコールとして語られる。つまり、「相手から」何をしてもらえるかが最も重要であり、「相手が」何かをしてくれたら私が返すのがルール、という考え方。もちろん、時に私が先に与えたり関係をリードする場面もあるのだが、今思えばそれは私が愛を受け取りたかったからであり、打算的な行為じゃないかと言われれば、そうと言わざるを得ない。相手に与える量を吟味している自分もいた。与えすぎることで迷惑にならないかという遠慮半分、相手を油断させてはならないという計算半分、その後何を与えてもらえそうかを含めて推し量る自分もいた。こうなってくるともう感情で行動できず、頭で考えている。本人としては無意識化しているそういった意図が露骨に相手には伝わっていなかったと願いたいが、何かへの恐れや不安から逃れたいが為のディフェンスとしてのスタンスが自分に定着していた。(そういう人間は「与えても見返りがないというのは騙されるということ」と考えるのだ、「等価交換」的な意識で行動しているのだと、後々この本に力説され、私は反省することになる。)

ここで名誉挽回しておきたいのだが、私は普段人から搾取するような人間ではない。むしろ仕事や友人関係においては、自分から進んで惜しみなく与え、頭で何かを計算することはないし、相手の包容力を信頼しているので与えることに遠慮もしない。一部のビジネスでの場面を除いて、特に見返りも求めていない。自分から湧き上がってきた「与える」という行為は、会社や組織、顧客に貢献したいから、友人が好きでその人と関われていることが嬉しいから、という思考を介さないシンプルな気持ちから来る自己表現であり、愛するものになら自分が持っているものは全部与えたいのだ。そうした行動の結果として、たくさんのものを与え返してもらっているとも思う。では一体なぜ恋愛となると、不思議なことに、一気にgiverからtakerになってしまうのか?という疑問が自分の中で浮上する。

無意識レベルでそういう恋愛観をベースにした恋愛をしていたが、この本に出会う少し前から、その価値観には限界があるなと薄々思いはじめていた。自分の価値観がなぜか自分自身をがぎゅうっと縛っている感覚があって、心が苦しいなと思っていた。電車に揺られながらこの微妙な苦しさの正体を深く考えてみて、ふと気づいた。その価値観に基づいた恋愛は、私の生きる指針とは真逆の、他力本願な活動になるからだ。

自分が愛を受け取れるか否かが相手の行動に依存しており、受け取れる愛の量によって自分の気持ちや機嫌がアップダウンするという仕組みができてしまっている。自分を幸せにする主導権が、自分ではコントロールしえない他人に握られており、すなわち自分で自分をコントロールできない状態に陥っている。他の人間関係では、自分が指揮権を持っていて、能動的で、自由で、もっと直感的に築いているのに、自分の人生にとって最も重要な活動のひとつである恋愛においてだけなぜか手綱を自分自身で引いておらず、受け身で打算的。それが「自分軸で自分の感情や感性を大事にして人生を生きたい」という私の基本的な価値観と相反しているのが気持ちが悪く、窮屈で自分らしくなく、違和感があり、スッキリしないのだと気がついた。恋愛観だけが人生観と逆のベクトルを向いてしまっていた。

旅道中の電車の中でふとこれに気づいたことは大きな収穫で、いつの間にか形成されていた恋愛そのものの捉え直しへの入口となる発見だった。今となっては、それまでの自分の内側の恋愛という領域だけ成長が止まっており、幼い考えのまま留まっていたようにさえ感じられる。こんなところに自分の大きな伸びしろがあったのかと思うと、ちょっとわくわくする気持ちもある。


「愛するということ」の第一章を読んで


自分の中で考えの変化が起き始めていた時、「愛するということ」の本に偶然にも出会った。自分が求めていたから本のタイトルが何度も目に飛び込んできたのかもしれない。

はじめに説明しておくと、この本はいわゆる恋愛指南書ではない。ハウツーは書かれていない。恋愛に留まらないもっと広義の愛についての本質が説かれたもので、タイトルの通り、一貫して「愛されること」ではなく「愛すること」とはどういうことなのか?に焦点が当てられている。実際に何を行動するかは読者次第ということになる。

そして、愛するということは「技術」、つまり習練して得られるスキルであり、そのスキルが養われ、人間として成熟していなければ愛することはできないのだ、と冒頭できっぱり主張されている。なかなかに厳しい。

愛は技術だろうか。もし技術だとしたら、知力と努力が必要だ。それとも、愛は快感の一種なのだろうか。つまり、それを経験できるかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。このささやかな本は、愛は技術であるという前者の前提に立っている。ところが、現代人の多くは疑いなく後者の方を信じている。

「愛するということ」 第一章「愛は技術か」

50年以上も前に書かれた文章のはずだが、何を隠そう、2023年に生きる私も後者の方を信じていたひとりです、と冒頭から頭を殴られたような感覚になる。
多くの人間がそのように考える理由として以下が挙げられている。

第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、つまり愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということだ。(中略)
愛には学ぶべきことなど何ひとつない、という考え方を支えている第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。

「愛するということ」 第一章「愛は技術か」

ハッとした。なぜ「いかに愛されるか」には私を含め世の中はこれほど関心を注ぎお金や時間を費やし、至る所で発信されているのに、「いかに愛すか」については真剣に考えたことも、誰かに説明されたこともないのだろうか?

心のどこかで、それは男性が考えるべきことなんじゃない?とすら思っている節が私にはあることに気づき、社会やその時代時代の常識によってつくられた価値観をそのまま自分に植え付けてきたのだと悟る。例えば、女性側の自分が恋愛の問題に直面した時は「なぜうまく愛されないのか?」を問題に設定する、という思考回路が自分の中にできている。

2点目についても自分の世界では常識になっていて今まで考えたこともなかった。1点目と若干矛盾するが、恋愛の問題=自分の問題<根本は相手側の問題であり、自分の行動は棚に上げて「そもそも相手が自分にとって適切なのか?適切でないのか?」の問題にすり替えてしまうことも多かった。確かに、「本当にこの人でいいのかな?」は恋愛相談でよく聞く言葉であり、一方で自分の愛し方について真剣に悩んでいる人は多分見たことがない。

この2つのバイアスが過去の私の他力本願な恋愛スタイルの土台になっていたのか、と急にするすると合点がいった。一章はたった8ページしかないのだが、この一章だけで自分の恋愛観の偏りをずばり言い当てられたようで、私がこの本を読んだ価値があったと思った理由が既にお分かりだと思う。


「愛するということ」の第二章を読んで


二章では、人間にとって愛とはどういう意味を持つのか?与えるとはどういうことか?が解説される。名言だらけで困ってしまうが、書き留めておきたいと思った文章を引用させていただく。

愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

与えることは、自分のもてる力の最も高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。(中略)
与えることはもらうよりも喜ばしい。それは、はぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

「愛するということ」 第二章「愛の理論」


「与える」ことがそんなに高尚な行為だったとは。「生命力の表現」とは、物質的なものだけでなく自分が持ち得る人間的なものを相手の為に表し差し出すこと。愛がなければ成立しないということだ。

与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどのくらい発達しているかによる。愛するためには、人格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシズム的な全能感、他人を利用しようとか、なんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分の中にある人間的な力を信じ、目標達成のために自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。これらの性質が欠けていると、自分を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。

「愛するということ」 第二章「愛の理論」

ここでギクッとしたのだが、私が恋愛においてだけなぜか受動的であるのは、愛する勇気がないからだ。失敗経験の積み重ねや単に自分に自信がないことからある種の依存心やナルシズムがあり、自分から与えるのが怖い。これまで自分のそういう一面にスポットライトを当てずにきたが、この一節に私の本心を鋭く言い当てられた感がある。他人に裏切られたり自分の力のなさから失敗することへの怖さ、その危うさに身を投じる不安感…そういう感情が自分の愛のある生産的な行動を抑制してきたのだという説明は、私の過去の様々なシーンと照らし合わせても納得がいく。


また、この本を読んで得られた一番分かりやすい収穫は、能動的な愛には共通して、"配慮・責任・尊重・知"があるという話だった。つまり、相手のことを積極的に気にかけ、相手のニーズに応えようとし、相手が唯一無二の存在であることを知ってその人らしく成長発展していくように気づかい、相手の立場に立ってその人を見ること。これが自分主体の愛の正体ということになる。深い。

自分の経験に当てはめてみても、確かにそう言える。家族や親友など、自分が心から愛していると思っている相手にはナチュラルにこれらができている(と思う)。自分の孤独感からの逃避を理由に無理に接近したりせず、自立したひとりの人間としてのリスペクトと配慮をお互いに持った上で深く関わろうとしており、何かを返して欲しい、自分の思い通りに支配したいという欲望はそこにはない。

それがひとたび恋愛対象の相手となると、私の場合はこれらが必ずしも体現できてきたとは言えなかった。裏切られることへの被害妄想的な恐れや不安から、もっと相手をコントロールしなくてはならない、手の内に入れなければならないという考えがよぎり、「能動的に愛すること」の邪魔をする。かと言って実際に相手に何かを強いたりすることはしないので、自分の中で葛藤し、モヤモヤになる。だんだん紐解きができてきた。

さらに、この理論は自分に対する愛にも同じことが言え、自分のことを愛していなければ、他人のことも愛せないのだとも言う。

私自身もまた他人と同じく愛の対象になりうる。自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。もしある人が生産的に愛せるなら、その人は自分のことも愛している。

「愛するということ」 第二章「愛の理論」

自分のことを認め、大事にし、自由にしてあげるセルフラブの考え方は他人を愛する為の準備とも言えそうだ。

「愛するということ」の第四章を読んで

第三章ではフロムが説く「愛する」をこの資本主義社会において全うすることがいかに難しいかが説明されており、社会の構造によって阻害されているという論調の為ここでやや絶望的な気持ちになる。

しかし、第四章では、愛す為にはどのような心持ちで習練すればよいのかが説明されており、トレーニングによってスキルが培えることへの希望を持たせてくれる。

愛を達成するためにはまずナルシズムを克服しなければならない。ナルシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという基準からのみ経験される。
ナルシズムの反対の極にあるのが客観力である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

「愛するということ」 第四章「愛の習練」


他力本願恋愛スタイルでは、「なんでこうしてくれないの」という想いが先行しがちなので、「愛して欲しい」という自分の欲望と「愛してくれない」という不安や恐怖心によってつくりあげた負のイメージとありのままの実態の区別ができず、客観性を失う時がある。誰もが経験したことのあるであろう、耳が痛い話だ。

そして、ナルシズムからの脱却の過程で必要な資質となるのが「信じる」ことだと言う。それも、盲目的に信じるのではなく、私たちが確信を抱くときに生まれる確かさや手応えを伴った、理にかなった信念のもとに信じるということ。

他人を「信じる」ことは、その人の基本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。これは、人は意見を変えてはならないという意味ではない。ただ、根本的な信念は変わらないのだ。

他人を「信じる」ことのもうひとつの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。

「愛するということ」 第四章「愛の習練」

100%理解することのできない赤の他人を愛する為には、信じることが必要で、その人自体はもちろん、その人の未来を信じて応援してあげること。

これは自分が大切にしたいあらゆる人に対して改めて持っていきたいと思った。


そして、この本の終盤ではこう語られている。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。

人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。

愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。

「愛するということ」 第四章「愛の習練」


このあたりが結論になりそうだ。この本の主張はとても概念的で、理想論と言えばそうかもしれないのだが、私はこの本は「愛」という向き合い方が難しい曖昧で壮大なテーマを考える際の重要な切り口をいくつか与えてくれ、これから年齢を重ねても変わらない、普遍的かつ本質的な土台となる考えをハッキリと提示してくれた。執筆から50年以上の月日が経っていることを(一部の表現を除いて)全く感じさせない、今現在を生きる我々のような人間にも等しく通用する教えだと思う。

というのも実際、身の周りや著名人で「この方は本当に愛情深い人だなぁ」と思っていた人物は、様々な濃い経験で培ったのであろう、この本に書かれた性質を万遍なく持ち合わせ、かつ行動に移して表現ができている人だった。この人たちに共通するものが何なのかについて長年分からずにいたが、読了後に答え合わせができた感覚がやってきたのも、読んだ価値を実感した理由のひとつ。

もちろんフロムの考え方が今の自分にフィットするものなのか違うのかは、実践してみなければ分からない。ただ、これからも自分の価値観を育てていくにあたって必要なプロセスとして、知らずのうちに形成されていた固定概念を炙り出してくれたり、新しい視点や因果関係を示してくれたり、心の中で言語化できずにいた大切な考えを言葉にしてくれた。

それは間違いなく恋愛だけでない人間関係全体に対する姿勢を見直すきっかけとなり、自分の行動の源となる信念の強化に繋がっている実感も得られた。抱えていたモヤモヤの正体もかなり特定できてきた感覚があり、迷走していた恋愛観やスタンスもかなり変わっていきそうだ。

きっと私以外の多くの読者も同じように、この本で愛に深く向き合い目が醒める体験をしているからこそ、半世紀以上にわたって世界中で読まれるベストセラーであり続けてきたのだと推測する。一度では理解できなかった文章もたくさんあったので、しばらく手元に置いて、また何度も読み返したい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?