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SF名作を読もう!(20)『スローターハウス5』

あの傑作『タイタンの妖女』を無邪気に(と言っても無邪気には笑えない部分も少なからずある小説だが)読んだ私としては、この『スローターハウス5』は、「なるほど、そういうことだったのか」とある意味タネ明かしされるような小説であった(ちなみに「スローターハウス」とは直訳すれば「屠殺場」のことであり、「スローターハウス5」とは「第五屠殺場」といった意味合いである)。あの、奇抜な、ありえない、時間も空間もそして人間という存在さえも軽々と超越してしまう、カート・ヴォネガット・ジュニアの小説の原点には、過酷な、この世のものとは思えない戦争体験があったのである。戦争では人が突然死ぬし、人が人を突然殺す。この小説で頻繁に出てくるセリフを使えば「そういうもの」こそが戦争なのである。そして強烈な戦争体験をしたあとでは、人は閉じこもり黙り込むか、反戦運動に立ち上がるか、あるいは自分自身をなんとか正当化するしか方法がない。しかし、ヴォネガットは違う。かれは想像力を持って、妄想力とも空想力とも言える驚異的な想像力を持って、それをも含んだ、戦争というあまりにも不条理な世界をも含んだ、より次元の高い別の世界を作り出そうとする。そしてそれは決して現実逃避ではない。それこそが実は、ある意味現実に対して正面から向き合う一つの方法なのだから。

現実に意味はない。この世は不条理である。だから人は意味を作ろうとする。この世界のみならず、自分自身という存在をも何とか意味づけようとする。しかし、そのアプローチがあるのであればもう一つの違うアプローチも当然あるであろう。自分自身という存在もその一部に過ぎない、より大きな世界を作り出すというアプローチである。恐らく過去においては「神話」というものがその役割を果たしていたのだろう。そうであればSFは、SFという寓話は、現代の神話であると言っても過言ではない。我々は常に不条理な世界に生きている。その中で何とかバランスを取っているのであるが、そのバランスはもろく崩れやすいものである。であれば、崩れた時に泣くのではもう遅いし、泣いてもそこに意味はない。崩れた時に、我々には「やっぱりね」と笑い飛ばすユーモア、あるいは余裕の力こそが必要であり、じゃあ、崩れたんであれば、まあ、私にはこっちの道もあるしね、という、別の選択肢、しかも複数の選択肢が必要なのである。そしてそれこそが想像力であり、行動力なのである。そう、想像力とはあるかもしれない無限の可能性の世界に向かって、自分と世界を開いていくことなのである。

前回、『タイタンの妖女』を評した時に、わたしは「パタフィジック」という概念を紹介したが、この意味でも、ユーモアと余裕をもって、軽々と違う世界、違う世界に抜けることができるという意味でも、やはり、ヴォネガットは「パタフィジック」の文脈に位置づけることができる作家であろう。しかし、その「パタフィジック」的な思想と精神は、戦争体験、しかも広島・長崎の原爆にも匹敵すると言われるドレスデン大空襲の体験があったからこそ生まれたものである。そして、ヴォネガット自身は、それまでの作品においてそれを前面に持ってくることは決してなかった。その意味で本作はヴォネガットのそれまでの集大成にして原点であるとも言えるだろう。事実、この小説は「わたし」であるヴォネガット自身の話から始まりそして再び「わたし」の話で終わる。そしてその間にヴォネガットお得意の時間も空間も存在も軽々と飛び越える小説世界が展開する。何が現実でなにが空想で何が妄想なのかもはやわからない、というかそれでいいのである。それこそが現実の本当の姿、つまりは現実の現実なのだから。

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