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SF名作を読もう!(14) 『タイタンの妖女』

ある意味私もそうだが、「科学的」であることにこだわるハードSF信者からは、この作品は「優れた物語ではあるが、SFではない」ということになろう。しかし、このNOTEでSF名作を紹介し、SFについて考えてきた現時点の私から言わせてもらえば、それでもやはりこれはSFである。さらに言えば優れたSFであるとも言える。では、なぜ、本作は優れたSFなのか、私なりのその答えは、「そこにはSFの原動力であり、ある意味初期衝動でもある「とんでも」があるから」である。

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とにかく、この作品、いい意味で「とんでも」である。あの爆笑問題の太田光さんが愛してやまない理由もそこにあるのだろう。とにかくとんでもであり、しかしそれでいて筋は通っている。笑わせられるとともに感動させられるし、考えさせられもする。これを名作と言わずに何を名作と言おうか。

そしてもう一つ、本作をSFと見なしえるもう一つの理由は、それは「人はどこからきてどこへ行くのか」というSF小説の伝統的で王道的なテーマを引き継いでいるからでもある。本作でのその答えは、ある意味皮肉なものでもある。しかし、それでも人は生きなければならないし、そこには人生があり、ドラマがある。その原理(人はどこからきてどこに行くかという原理)とそこでの人間のドラマを描く、それがSF小説である、という言い方もできよう。そしてその原理は科学的なものでも当然ありうるし、あるいは本作のようにとんでもなものでもありうる。しかし、「とんでも」が科学ではないとはだれが言えようか。考えてみればアインシュタインの相対性理論もある意味「とんでも」なものである。そのいみで化学はとんでもであり、とんでもが科学を支えてきたともいえる。

ちなみにであるが、本作を読んで連想、それこそ類推されられたのが、パタフィジック小説の名作と言われる未完のルネ・ドマールの小説「類推の山」である。パタフィジックとはフィジック(物理的、現実的)のメタ概念であるメタフィジックのさらにメタの概念であるが、それはある意味「とんでも」の世界である。SF小説は科学的であるという意味で「フィジック」である必要がある、しかし小説(フィクション)という点では「とんでも」でもある。この本来であれば結びつくことのない両者が結びつく世界、それがSFであるともいえるだろう。『タイタンの妖女』はその結びつき方の一つ、そして非常に優れたその一つの形である。

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