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第3部 Vtuber/Vライバー論:キズナアイという「存在」(7)

「分人」という考え方(2)

「人は対人関係に合わせて様々な顔を持つ。そしてそのそれぞれすべてがその人である。」
「分人」という考え方を一言で表すとそうなるであろう。そしてそれは事実であり、我々は基本的にそれをある種の当然のこととして日々の生活を送っている。

そしてこのことを逆の方向から言えば、「人(個人)というのは分人の集合体である」ということになる。そしてそれが人=パーソンと、「キャラ」との違いでもある。人=パーソンにはさまざまな側面(顔=キャラ)がある。しかし「キャラ」(=キャラクター)は原則としてそのうちの一側面しか提示できない。

このことは、役者とアニメキャラとの関係を考えればすぐに理解できるであろう。役者はさまざまなキャラを演じることができる。しかし、アニメキャラは基本的にはその者以外にはなり得ない。そしてその意味でキズナアイはもはや「キャラ」という存在を超えていた。キズナアイ演じる〇〇、ということができる存在となっていたからである。「分裂」という形で「分人」をわざわざ演出する必要がなく、キズナアイ自体が「分人」として複数の場に出ることができるようになっていたのである(実際リアル会場での観客を相手としたリアルライブも行われた)。違う言い方をすれば、もはやキズナアイはキズナアイというキャラではなく、キズナアイという一人の人間(=人間存在=現存在)となっていたのである。

しかし、そうなると次に生じるのは人間=個人として、その中にある「分人」性をどう扱っていけばいいか、という問題である。「分人主義」を唱える平野は、当然「分人」というものを肯定的に扱っているが、しかしその小説の主題はやはり「分人」というものを肯定した上での「個人」としての「人間」の問題、「分人」であるが故の「個人」の葛藤である。そしてその意味で、「個人」というもの、「人間」というものを掘り下げているという点で、平野はやはり「文学」の人である。しかし平野がいわゆる「リアリズム」即ち、日本の場合は明治以降の近代文学と違うというか一歩乗り越えているのは、近代文学というものが「個人」というものを前提として、つまりは「個人」というものをそのリアリズムの基盤としていたのに対して、平野はそのリアリズムの枠組みの基盤を「分人」の側に置いている点にある。しかし、それでも「じゃあ、個人って何?」という問題はやはり残る。平野の個々の作品を取り上げて論じるのはまた別の機会としたいが、例えばその「分人主義」を初めて前面に提示した作品として知られる『ドーン』(2009)において、主人公が葛藤するのは、職業人(この主人公の場合は医師にして宇宙飛行士)としての自分と妻に対する自分、そしてさらに言えばこれまでに関わってきた人、あるいは関わってこなかった人としての「社会」に対する自分との統一性、あるいは関連性、つながり、連続性の問題である。作中における主人公明日人(アスト)と妻との以下の会話は極めて示唆的である(p.175-176)。なお、ここで妻が言う「ディブ」とは「ディビィジュアブル」つまりは「インディベィジュアブル」(=個人)の対語としての「分人」のことである。

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