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改めてであるがVtuber(VLiver)がVtuber(VLiver)して書くということについて考えてみた。山野弘樹著『VTuberの哲学』を読んで。

新進気鋭の哲学者である山野弘樹氏が書いた『Vtuberの哲学』(春秋社)を読んだ。Vtuberについての哲学的、と言うか存在論的考察は私も今の、そして今後のライフワークの一つとしており、このNoteでも複存論:メタバース時代の存在論(2022-2023)というものにまとめているが、私がエセ哲学者であるのに対し、山野氏は本物である。また、扱っているVtuberも私より一世代若く、わたしがキズナアイ世代であるのに対し、山野氏は「にじさんじ」「ホロライブプロダクション」「ななしいんく」など、まさに今が旬の人たちである。

山野氏の論と言うか主張はまさにその著作である『Vtuberの哲学』を読んでいただきたい。しかし、というか、そして、と言うべきか、これを読んで私が改めて考えさせられたのは、いまではある意味当たり前というか、皆「それもありでしょ」と思ってしまっているが、Vtuberと言う存在が、Vtuberという存在のまま、様々なメディアで書いたり話したりしていること、その現象というかその状況の不思議さと言うか奇妙さである。ここに見事に芸能人とマンガやアニメのキャラクターとの中間的な立ち位置の存在であるVtuberという存在の不思議さ(と魅力)が表れていると言えよう。芸能人の場合、その人がテレビに出てコメンテーター的に話したり、あるいは芸能人でありながらエッセイや小説を書く、ということは別に不思議なことではない。それを話している人、それを書いている人とその人自身は一致しているのだから。しかし、これがアニメや漫画のキャラクターとなると話は違ってくる。キャラクターはキャラクターでありその後ろにはそれを作っている人がいるのだから。では、Vtuberの場合はどうだろうか。もはや、我々はそれ(VtuberがVtuberとして発言したり書いたりすること)に別に違和感を感じないだろう。つまり、もはやVtuberという存在にはいわゆる「中の人」とか「後ろのひと」という概念は通用しないのである。これは観ている側の見方だが、やっている側も同じであろう。やっている側も基本的には決してVtuberという「キャラ」を演じているわけではない(もちろん中にはそういう人もおり、それがつらくて辞めていく人もいるであろうが)。やっている側にとっても、それは自分自身にほかならないのである。

となると、ここで当然、「でも、それっていわゆる二重人格なんじゃないの」という声も出てくるだろう。確かにそうかもしれない。しかし、それがむしろ人間というものの本質で、人間というものはそもそもが二重、三重、さらにはそれ以上の人格を持っているし、持っていていい、というのが、芥川賞作家、平野啓一郎の「分人主義」の考え方から持ってきた私の「複人主義」の考え方である。事実、私も、このNoteを「DJ.Plugmatics(DJ.プラグマティクス)」というメタバース空間や配信でライブを行うときに使っているアバター名(私の場合はVtuberよりもVliverと言った方がいいが)を使って書いており、Note上のプロフィール写真もそのアバターの写真である。そして私がこのNoteでフォローさせていただいている人たちにもそのような人は決して少なくない。また、私が書いている記事も、もちろんそのVliverとしての活動に関するものもあるが、むしろそれは少数派で、観た映画の感想だったり、実際に行っている田舎暮らし、二拠点生活の話の方が多かったりする。つまり、基本的に私は私自分の私生活の話をNoteに書いているのだが、そこで使っている名前は私が住民票上、戸籍上に登録している名前ではない。しかし、私は何のためらいもなく、自分のことを自分のアバター名で書いているのである。

でも、そう考えると、今度はそれって、いわゆるペンネーム、芸名と何が違うの、という声も出てくるかもしれない。確かにそうかもしれない。私は私のことをペンネーム、もしくは芸名を使って書いているのかもしれない。しかしペンネームや芸名の場合、体、肉体はそのペンネームや芸名と本名とを共有している。しかし、VtuberやVliverの場合はそうではない。そこにはアバターというもう一つの肉体があり、アバター名はあくまでそのアバターの名前なのだから。となるとそれはもはや自分であると同時に自分ではない存在であるということになる。

まじめな人であればあるほど、ここで混乱し葛藤してしまうであろう。まじめな人ほど、自分は自分、私は私という唯一無二のアイデンティティ神話というものに縛られてしまっているからである。でも、私が勧めたいのは、むしろそれ、唯一無二のアイデンティティなどはないし、むしろ要らない、ということ。そしてそれこそを新しい可能性として捉えること、新しい生き方として捉えること、新しい希望として捉えるという考え方である。つまりは今や人は複数の自分を持てる、という事実自体を楽しみ、そしてその複数の存在としての自分を肯定的に捉える、という方向であり考え方(つまりは「アプローチ」)である。そしてそのための条件となってくるのは、アバターとしての自分も、いわゆる「本当」とされる本名の自分も決して何かをやらされているのではなく、どちらも自分のやりたいことをやっている、という生き方であり、ライフスタイルである。あるいはこちらの(即ち、現実の、実世界の)名前と体ではでやりたいことがなかかなできないのであれば(それが世の中というものの現実であるし、私もその中で何とかもがいている一人である)、もう一つの姿かたちと名前の方でやりたいことをやる、という気の持ちようが、今の時代、重要であり必要なのではないか、という考え方である。先にも述べたように、そしてもう既にみんな気づいているように、今の時代はそれができるようになっているのだから。であればそれを使って、それを満喫しない手はないのではないだろうか。そして事実、このNoteも別に誰かに言われて書かされているわけではなく、自分が書きたいから書いている。そしてそれを読んでくれる人がいる。「いいね」をくれる人がいる。「私」(現実の私であると同時にVliver、アバターとしての私)にとってこれ以上の幸せはない。


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