ayuとの偶然から必然の出会い
皆さんは、自分の推しアーティストとの初めての出会いを覚えていますか。
彼/彼女の音楽をインターネット、テレビ、ラジオ、有線などで聞いたり、周りの人々の話、他アーティストの話から知ったり、いろんな出会いがあります。
ブリは今まで出会ったアーティストたちの初めての出会いを覚えています。何年も経っても、出会った時の気持ちは変わらずにいます。時に人生で迷いそうになった時、彼/彼女との出会いを思い出して、自分の推し愛を再び磨いて、大切にしています。
ブリは小学生の頃から、音楽に興味を持ち始めました。まだ世界を何も知らなかった、子供のブリが出会ったアーティストたちが、後にブリの人生で大きな影響を与えました。ブリが1990年代後半、2000年代前半に出会ったアーティストたちは、後のブリの音楽的好みを作り出した、重要な存在です。そのなかから、あるアーティストについて書こうと思いました。
それは、浜崎あゆみ(はまさきあゆみ)なる、ソロアーティストでした。ブリは子供時代に彼女を初めて見た頃、彼女の音楽とファッションが流行していました。CM、音楽番組でも、彼女の姿を見ました。「あゆ」「ayu」の愛称で知られる彼女は、数々の代表曲を発表し、2000年代前半の邦楽史に刻みました。ここでは「あゆ」という愛称で書きます。
2023年4月8日、あゆはデビュー25周年を迎えました。今年は25周年記念のイベントやライブツアーが盛り上がり、あゆの今までの楽曲が再び注目されています。この記事では、ブリがあゆに出会ってから、今までの出来事を振り返ることにしました。
♡世紀末の出会い
ブリがあゆに出会ったのは2000年の秋でした。20世紀の終わりで、世紀末だと騒がれているなか、テレビであゆに興味を持ちました。ブリの両親にあゆの話をしました。両親はあゆには全く興味を持ちませんでしたが、父はブリにあゆのアルバムをプレゼントにあげました。それは、当時ヒットしていたアルバム『Duty』(デューティー)でした。
あゆは福岡県生まれで、ブリの両親と同じ出身地で、どこか親近感を持ちました。同性であるところにも、興味を持ちました。
ブリは家族のなかで、このアルバムをたくさん聞きました。全ての曲を覚えるくらい、たくさん聞きました。終始、重厚感がある世界観と、孤独と別れ、生きる力が伝わる歌詞に、惹かれていきました。ブリは友達が少なくて、さびしい日々でした。あゆのかわいい、明るい、切ないハイトーンと力強い歌声が気に入りました。すぐ飽きるどころか、中学生、高校生、大学生、社会人になっても、思い出すたびに聞き返します。特に『SEASONS』(シーズンズ)というシングル曲を気に入り、聞けば聞くほど、自分の生きる喜びをしみじみ感じました。当時プレゼントされたCDを今も本棚に残しています。デジタル媒体になっても、CDをどこかに譲ったり、売ったりすることもなく、今も年季の入ったアルバムを大切にしています。世界で一つだけのものを残しています。あゆを通して、友達と盛り上がりました。
2000年から2002年あたり、あゆは若い女性を中心に流行を起こしました。音楽だけではなく、彼女が考えたジャケット写真のコンセプト、特徴的なファッションが注目されました。あゆの輝く瞳、瞳を強調したアイメイク、ヒョウ柄のアイテム、鮮やかなネイル、あゆのイニシャルを示すマーク、かわいらしさと派手なファッションが、女性を引き寄せました。あゆとコラボレーション企画を行った化粧品、食べ物、携帯電話、音楽プレイヤー、デジタルカメラ、ファッション雑誌など、日本中であゆの名が知れ渡りました。ブリ少女は、音楽賞を獲得したあゆの姿を見て、これは伝説に語り継がれるような気がしました。本当にそうなりました。
♡彼女を通して楽しんだ日々
2004年あたりから、ブリは両親の事情で海外に住むことになりました。当然、邦楽にまつわるニュースから離れてしまいました。さびしくならないように、あゆの楽曲を音楽プレイヤーにコピーして、いつでも聞けるようにしました。
インターナショナルスクールに通っていたブリは、さまざまな人種が集まる生徒たちから、洋楽の話を知りました。当然、誰も邦楽のことを知りません。でも、同級生の日本人はもちろん知っています。同級生はなんと、あゆのCDを持っていました。相手もあゆが好きで、あゆが載った雑誌を持っていました。写真を見て、彼女のかわいさに盛り上がりました。あゆの話で意気投合して、相手から、4枚目から6枚目のアルバムを3枚借りました。当時出たばかりの『(miss)understood』(ミス・アンダーストゥッド)なるアルバムも聞きました。アルバムに付いていたミュージックビデオのDVDをじっくり見ました。『Duty』よりさらに多彩で明るく、洋楽の曲調があったり、邦楽らしい進行と、あゆの人間性あふれる歌詞が詰まったアルバムでした。
まさかここに来て、あゆと再び出会って、話が盛り上がるとは思いませんでした。海外でも、あゆと共にいて、楽しく過ごしました。ブリが海外にいた間、あゆはアリーナツアー、カウントダウンライブを毎年行い、ライブ動員数を増やしました。そして、初めてのアジアツアーを開催しました。あゆはアジアまで知名度を広げました。
ブリが日本に帰国した頃、あゆの流行は落ち着きました。2000年代後半、あゆの後輩の女性アーティストが続々と現れて、勢いを高めました。女性のソロアーティストから、女性グループが人気を集めて、ソロアーティストは目立たなくなりました。女性のファッションが派手なものから、簡素で清らかなファッションに移ってきました。流行が変わっていくなか、あゆは経験値を積み重ねていました。しかし、あゆ自身に困難が起きました。彼女とは無関係の流言、彼女をめぐる運営の騒動で、あゆは心身が落ちこむようになりました。それでも、音楽活動を続けました。思うようにいかない状況で生まれたアルバム『GUILTY』は、今までのあゆにない、深いメッセージと歌声を出しました。少女時代の最後を過ごすブリに、あゆは生きる力と夢を贈りました。2008年にデビュー10周年を迎えたあゆは、強い決意を持った時でした。
♡時代と流行を超えた歌詞
ブリは大学時代、多くの邦楽ロックバンドに出会い、邦楽ロックの世界に飛びこみました。2010年代を迎えた頃、流行していたアイドルグループが好きではなく、独自の好みで音楽を選んでいました。インターネット上では、電子の歌姫と呼ばれるボーカロイドが生まれました。邦楽界は、多彩なアーティストが増加して、「真のカリスマ」が出にくくなりました。人々はさまざまな好みの音楽を広めていました。
ブリは、邦楽ロック漬けの日々を過ごしていたなかでも、時々あゆの楽曲を聞いていました。忘れそうになっても、どこかであゆの楽曲を聞いたり、あゆに関する話を知ったりして、活動がうまく行っていることを、うれしく思いました。ここまで来ると、ブリには見えない力が、あゆと共にいるような気がしました。あゆの歌詞で、「共に行こう」と感じることがありました。子供から大人になっても、共にいる音楽は新たな意味を持ち、大切な存在だと確信しました。
ある日、あゆのインタビューを音楽番組を見ました。デビュー17年を重ねて、あゆに困難があっても、挑戦を続けて、音楽活動を重ねていく想いが伝わりました。アメリカのロサンゼルスで活動していたあゆが帰国後、待っていたファンの姿を見て、感じた言葉が印象に残り、彼女を応援し続けていることがうれしくて、ブリは涙がこぼれながら、話を聞きました。あゆは日本で活動していくほうが、自分自身にとって、良い環境だと考えました。
♡語り継がれる音楽と歌姫
あゆが今まで残した音楽と伝説は、今でも邦楽史の記録やインターネット上のどこかで、取り上げられています。ブリが聞いていたあゆの楽曲は、SNSの踊りに使われたり、学校の卒業式で歌われたり、今の少年少女たちにも伝わっています。あゆが流行していた2000年代前半のファッション、携帯電話、音楽プレイヤーは、「平成レトロ」として呼ばれ、物好きのマニアに再び注目されました。後輩アーティストたちにも、あゆの活躍が語り継がれています。
デビュー時に少女だったあゆは、大人の女性へ変わり、長い活動を重ねてきた歌姫になりました。ブリはあゆの音楽が今も愛されているのは、彼女の独特な姿と歌声、時代と性別を問わない人間を描いた歌詞が、他にない魅力だからです。人間は「自分とは、生きるとは何か」と考える生き物だと、彼女の音楽から気づきました。女性という性別のイメージに縛られない、強さと人間らしさを感じます。
最後に、あゆの楽曲から、物事は「偶然」だと言われるけど、振り返ると全ての物事は「必然」だと確信した歌詞を書きます。何気ない出来事は、後に長い推し愛になっていき、これから先も変わらないと思いました。この想いは、あゆからの大切な宝物として、持ち続けていきたいです。
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