名称未設定のデザイン

Thank you 2018, Hello2019

2019年になった。あけましておめでとう。

2018年は、本当にいろいろあった。
卒論を書き上げ、たまりばの家族たちは家を出ていき、新たな仲間が加わった。府中での大きなFESTIVALを企画運営し、大学を卒業できず、でもプラッツの正職員として働かせてもらうことになり、有機農業の研修を受け、外語会の理事となり、キミマチプロジェクトを開催し、とある団体の立ち上げに加わり、小学校とのコーディネートもし、様々なところで講演やトークをさせてもらい、ありがたいお話をもらったりもした。

この一年間でまたさらに縁が広がり、かつ濃くなっていった。学生時代もずーっとそんな感じだったのだけど、2018年は特に府中のつながりや有機農業のつながりもでき、さらに幅広く出会うことが多くなった。し、そこから仕事や頼まれごとをいただいてやることも多くなっていった。

振り返ってみれば、激動の一年であったと思う。こんなに様々なことが起こる一年もなかなかないだろう。その中で社会のことを本当にたくさん学んだ。上の文面だけ見るとなんだかすごい人だ。自分で今見て思った。

ただ、そこに自分がいたか。と言われるとどうもなんだかしっくりこないのだ。もちろんその一つ一つにすばるのかけらは存在したし、事実として何も否定することはない。

ただ、そこに自分の意思はあっただろうか。意志はあっただろうか。

振り返って、いろいろやったなあと思いつつ、こんないろいろやってないではないかという声が聞こえてくる。自分の中に閉じ込められていた自分が叫ぶ。意思が嘆く。


1月1日、ボヘミアンラプソディーを観てきた。ああ、こういうことだなぁと思った。

2018年、様々な人に会う中で「表現」という言葉にところどころで顔を合わせることがあった。それは言葉としての表現ではなく、概念としての表現に数多く出くわした。そのたびにすごいなぁと感嘆し、自分の中の「表現」に会いたくて探してみた。けれど、あんまり出会うことができなかった。どこにいるのだろう自分の表現さんは。

表現さんを探していたら、彼が居そうなところを見つけた。見つけたのだけれど、彼の姿は見えなかった。何か大きな黒い幕に包まれていて、顔を拝むことができないのだ。呼びかければかすかに声は聞こえるのに、見ることも触れることもできない。彼の声は少し寂しそうであった。


どうやら少し、流されすぎていたのだなと思う。いつもは流れに流されながらも、自分の向かいたい方向をキッと見つめているのだが、昨年は激流に流されすぎて見失っていたようだ。

たくさんの人に出会い、その人たちが考えていることに耳を傾け、彼らのために考えすぎていたら、本当に大切な人のことを考えることを忘れていて、いつの間にか気持ちが離れてしまった。というような感じだろうか。

だから、1月1日、不意にこの映画が見たくなった。こういう直感はよく働く。とにもかくにも、自分の2019年の始まりにはふさわしい映画であった。

自分を表現していこう。

これが今年の抱負だ。周りのことを気にしすぎず、自分の気持ちにちゃんと寄り添おうと思う。

といっても、自分には表現する媒体が少なすぎる、絵は下手だし、楽器もできない。プレゼンがうまいわけでもなければ、ものづくりもできない。

言葉だったら。

言葉だったら、周りにいる仲間たちからほめられたことがある。

言葉だったら、下手なりに自分の思っていることを表現することができる。と思う。

ということで、今年はノートを少しずつ更新していこうと思います。過去の記憶も物語も、伝えたいことも、日記も含めて。少しでも自分が考えていることを表現するために。

ここは誰とも比べず、何も求めず、ただ排泄するかの如く、考えを出していきます。そう言えば、あぁこの人たちは滅多な事では失望してくれなさそうだなという仲間に囲まれていのだなと気づけたというのは、2018年の大きな、大きな収穫でした。みんなありがとう。

という、ながーい新年の抱負でした。

サポートを頂くと、 すばるくんがうれしくなる⇒誰かのために何かしたくなる⇒周りの人がちょっと幸せになる⇒その周りの人がいい気分になる⇒いつかどこかのあなたに届く。かも。知らんけど