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背に焦がす エピローグ 3

   路面電車に乗ると、ポケットからスマホを取り出した。そして住所を、あの日、記憶して、ずっと頭の片隅に置いてあった住所をグーグルマップの検索窓に打ち込む。
 車内は空いていて、そこはかとなく週末の柔らかい空気が漂う。こんなのどかなチンチン電車でも、平日は通勤通学客で混雑するのだろうか。島崎はそんなことを漫然と考えていた。
ふと窓の外を見遣ると、満開の桜が目に入っては後ろに流れていく。
 桜か。
 今頃、ミハルやセイジたちは、あの緑道で花見をしていることだろう。その誘いを断って、この街まで来た。
 そう、あの大晦日から、何ひとつ俺は変わっちゃいない。相も変わらずミハルの「痕跡」を追い続けているんだ。

 豊橋駅から三十分ほど揺られると、終点に着いた。
 ファミレス、紳士服店、大型家電量販店、パチンコ屋、その狭間にかろうじて息をしている地元の町中華、自動車の修理工場、クリーニング店。どこの地方都市でも見られるようなロードサイドの風景だ。
トラックがひっきりなしに走り去っていく街道筋の歩道を、島崎は歩く。スマホを片手にしばらく進むと、古びた喫茶店の前で足を止めた。
「来ちゃったよ。まったく……」
 言いながら、通りに面した大きな窓から店の中を覗く。が、群青色のフィルムが貼られていて、様子は伺い知れなかった。
島崎は意を決してドアを押した。カランカラン、と来店を知らせる鈴が鳴る。
カウンターと、テーブル席が五つほど。スペースを隔てる木の仕切りは、長い時間を経てあめ色に光っている。そして、染み付いた煙草の匂いと、黄ばんだ壁のクロス。薄く流れる、有線であろうBGM。午後の遅い時間のせいか、客はいない。
「いらっしゃいませ」
 声をかけられて、島崎の肩が思わず跳ねた。カウンター越しに、髪を引っ詰めた妙齢の女がこっちを見ている。慌ててフロアに下りると、いちばん奥のテーブル席に腰を下ろす。
 トレーに水とおしぼりを乗せて、女が近づいて来た。
「何にしましょう?」
 その声を聞いただけで、確信する。
 この人が、ミハルの母親だ。
「あの、アイスコーヒーを……」
 言いながら顔を上げる。目が、合った。顔は似ていない。似ていないが、面影はある。
はい、と小さく答えると、踵を返してカウンターへ戻っていく。
 考えろ。俺は何しにここへ来た。考えるんだ。
 気付くと汗をかいていた。アイスコーヒーが来るまでに、自分がどうするか決めなくてはならない。
決める? 
そんなことも考えないでここまで来たのか。永遠にも感じられた新幹線の中での二時間、路面電車のシートに座っていた優雅な三十分、いくらでも考える時間はあっただろう。
島崎は自分に呆れ果てていた。同時に、人によっては「冷たい」とまで言われる、普段の冷静な俺はどこへ行ってしまったんだ、とうろたえる。そして思った。自分をこんなにも不様にしてしまうミハルのことを。
「アイスコーヒー、お待たせしました」
 その声で我に返る。
 答えはまだ見つかっていない。どうするべきかを決めていない。
どうする? どうするんだ。
「あの」
 気づくと島崎は口にしていた。
「あの、南條三春さんのお母様ですよね?」
「……はい?」
「自分、ミハルさんの知り合いです」
 デイパックの中をまさぐって名刺入れを取り出した。一枚抜いて両手で差し出す。
「島崎と言います。急に申し訳ありません」
 女は、恐る恐る受け取った名刺を眺める。
「東京から……」
「はい」
「三春の……」
「そうです」
 名刺と島崎の顔を交互に見る。
「それで……今日はどんなご用事で」
「あの、」
 島崎はそこでまた言い淀んだ。あの、あの。
次の言葉は無意識に出た。
「千夏さんに、会いに来ました」
 瞬間、目を大きく見開いたその表情。島崎は思った。ああ、俺はこの目を知っている。この目に焦がれ続けた。
潤んだような、黒目がちな、目。


  ミハルの母は、それ以上問いを重ねることをしなかった。
「三時になったら一度お店閉めますから。それまで待っていただいていいですか?」
 島崎は頷くと、黙って椅子に座り、アイスコーヒーを啜った。
カウンターの向こうとフロア。その距離と沈黙の隙間を埋める有線。レディオ・ヘッドだ。洋楽か。珍しいな。
そう思ったきり、あとは何も考えずに時間を待った。

「行きましょうか。家はすぐそこなんです」
 ミハルの母は、店の鍵を閉めると、振り返って言った。
街道に沿ってしばらく歩くと、路地を折れた。会話はない。春先のぬるい風が耳元で鳴る。来週にはこの風が東京にも吹くだろう。そんなことを考えながら、島崎は少し後ろをついて行く。
「ここです」
 一軒の家を指さした。昭和を感じさせる、年季の入った佇まい。古い。が、古ぼけてはいない。
どうぞ、と促されるままにドアをくぐり、島崎は家の中に入った。
 通されたのは居間だった。
「お茶、淹れますから」
 コートを脱いで台所へ消えていく後ろ姿に向かって、お構いなく、と声をかけてみたが、届いたかどうかはわからない。
島崎は部屋を見渡す。家と同じだけの年を重ねたと思しき箪笥、褪せも焼けもしていない障子。そして仏壇。島崎の座る場所からは、香炉の後ろに置かれた写真はよく見えない。
 やがて、ミハルの母が戻ってきた。
「どうぞ」
 きちんと茶托に乗せられた湯呑みを差し出され、どうも、と軽く頭を下げる。
「その……」
「はい」
 島崎は、緊張の余り、食い気味に返した。
「三春がお世話になっております」
「いえ、お世話だなんて、そんな」
「あの、三春とは……」
「あ、知り合い、というか、その」
言い淀む自分に心の中で問うていた。
 俺は、ミハルちゃんの何なんだ?
「……友達です。ミハルさんがお付き合いされている男性を通じて知り合いました」
「ああ、精二さんですか?」
 安堵の響きが混じり、表情があからさまに和らいだ。
 ……セイジよ、お前は一度も会ったことのない人にまで「感じいい」のかよ。ムカつくな。心の中で毒づいたが、秒で恥じる。
「そうです、セイジです。彼の同僚で」
「どうりで。いただいたお名刺に出版社とあったので」
「そうなんです。出版社です」
 そうですか……。小さな声でミハルの母が呟く。
また沈黙が訪れた。
次の一言は俺だ。この場合、俺だろう。俺しかない。でも、なんて? 
島崎が頭をフル回転させて「次」を考えている間に、相手が先んじた。
「あの、千夏のこともご存知なんですか?」
「……はい?」
 抜かった。「千夏さんに会いに来ました」と俺は言ったのだ。この問いは当然だろう。だが、それに返す答えを用意していなかった。
「……はい」
 おいおいおいおい、と心の中で自分に突っ込む。知らねえだろ。この間まで、ミハルちゃんに妹がいたことすら知らなかっただろ。
「それは、姉妹ともどもお世話になりまして……」
 遅かった。これはもう、知ってるテイで行くしか……島崎が腹を括ったところで、促された。
「千夏に、会ってあげてください」

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