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本音をとらえる精度を上げていく

本音で生きよう。

という、メッセージは近年すごく増えてきた。
その場その場の状況や、空気に合わせるのではなく、
自分の本音に従って生きようと。

しかし、長い間筋トレをしていなかった人が、
久々に筋トレをすると、体が全く動かない様に
本音というものも、長い間接続していないと、
とらえづらいものになっていたりする。

できることなら、上手いことやりたい
目の前の物理的に対処する対象を、
上手くこなしたいという風に考えると、
どうしても打算的になる。

そうすると、本音とは遠ざかる。

本音は非合理的なものを自分に発信してくるから、
自分にとって都合の良いものだけを採用して、
本音に従って生きてますというのは違ってくるだろう。

本音に従ったら明らかに損するなと
思うようなことでも、本音で「動きたい」ととらえたら、
または「やりたくない」ととらえたら、
それぞれを実行する。

本当はこの人嫌いなんだけど、
組織内でのポジション確保するために一緒にいるとか、
本当は好きなのに、バカにされたくないから、
やってないとか。

嫌いな先輩から離れれば、
その組織での立ち位置は悪くなるだろうし、
好きで始めたことはバカにされることだってあるだろう。

でも、それが本音で生きるということなのだ。

本音で生きる=上手くいく

という風に勘違いしてしまうと、
本音の取り扱いを大いに間違ってしまうのだと思う。

本音で生きると、
いわゆる客観的な損をすることも増えるだろうけど、
生命力だけは戻ってくる。

行きたいから、行く。
食べたいから、食べる。
会いたいから、会う。
やめたいから、やめる。
始めたいから、始める。

どれも、とてもシンプルなこと。
でも、案外出来ない。

それはどうしてか。

根本に傷つきたくない。

というのがあるのではないだろうか。

本音で生きるよりも、
客観的な損を通して自分が傷つくという体験を
避けたいがために、心は殺して無難で嬉しくもない方を
選んでしまう。

傷つくのは辛いから、
人間としては自然な心理なのだと思う。

だけど、それだと生きている実感は感じづらい。

まずは、その傷つきたくない、損したくない
という感覚も本音なのだから、
その声を一度きちんと抱きしめてあげよう。

あー、怖いんだね。嫌な思いしたくないんだね。

その本音をとらえた上で、
自分はどうしたいのか?という質問をしていく。

それでも、やっぱり傷つきたくない!

という本音が返って来たら、
それに乗っかってあげるのも大切だ。

なんでもかんでも、損してもいいから、
本音で生きます!というドラマ的な生き方は出来ないし、
そういう消極的な自分を許すことも、
本音を尊重していることになる。

その中で、やっぱりこれはやってみたい。
みたいなことが出てきたら、それは実行する。
損することが大前提で。

そうすると、やっぱり動いて良かったな、と。なる。

本音に従うというのは、
積極的なものに従うだけでなくてもいい。
消極的なものにも従っていく。

そうすると、どちらの本音にも耳を澄ませられるから、
自分という生命体は喜びを感じていく。

やりたいも、嫌だも聞かないまま、
思考の言いなりにされていたのが、嫌なのだ。

本音のみに従って生きていく
ということは、現実的に難しい。

それならば、本音を刻一刻ととらえながら、
生活することは出来るはずだ。

本音をとらえる精度が上がれば上がるほど、
自分との仲は確実に良くなっていく。

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