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自分にご褒美ばかりあげているから、自分を認められない

最近は、「自分を大切にしてあげよう」「まずは自分を優先にしてあげよう」という感性が当たり前になっていると思う。
何か鬼の首を取ったかのように、まるでいきり散らすかのように、「自分を大切にしてあげられない人は他人も大切にできないよ!」と言う人たちと頻繁に出会う。

いや、言いたいことは分かるよ。
でも自分を大切にしているようには見えないんだよね。そんなにひねくれちゃってさ。

自分に自信がなく、他人の意見にいちいち動揺して、他人に傷つけられないか常に怯えているがあまりに、自分を丁寧に扱うことが出来なくなっている人なのだろうと思う。しかし「自分を大切にしないやつは死刑!」みたいなことばかり言っていると、結局のところは人が離れていくばかりだろう。
人生は思い通りに行かず、ますます卑屈な顔つきになってより強い言葉で「自分を大切にしてあげよう」と連呼する。

こんな言い方もよく聞く。

「自分にご褒美をあげよう」
「自分を褒めてあげよう」

なるほど。たしかにそれはいいねと思う。自分に褒美をあげるのは楽しいし、言い訳として悪くない。よく分からないけど自分を大切にすることに繋がるのかもしれない。
しかし案の定、彼ら彼女らは自分から褒美をもらい続けている割に元気がない。変わってない。いつもオドオドと自信がなく、他人から「使えないやつ」と言われることに怯えている。自分探しという名前の死に場所探しを続けている。

自分に褒美を与え続けているわりには、自分を認められないんだねと思う。

自己肯定感という言葉は陳腐だが、自己肯定感の欠片もない。自分を大切にしている割には自分を認めていない。

本当の意味で自分を大切に出来ていない人達

自分を大切にしているつもりで、それでも苦しさから逃れられないのはなぜなのか。

それは、人に与えることを知らないからだ。自分を犠牲にしてでも他人に奉仕することの価値を理解できていないから。

ほら、また反論したくなっただろう。「自分を犠牲にするのは間違っている!」とか脊椎反射で反応するほど、何に怯えているのか。

人に与えるのは勿体ない、与えるのは損をしている、見返りがない、なんて考える癖のある人には自己犠牲は理解できないことだろう。それは受け取ることに慣れきっているから。受け取ることが嬉しいことで、与えてくれる人が優しい人だと思っているからなのだ。

世の中にいる自己肯定感の塊のような人は、与えさせてくれることに喜びを持ち、奉仕させてもらえることに感謝している。そのことによって与えることで得られる、誇りや自己承認という褒美を自分の中で何度でも生み出している。褒美を自分に与えるのではなく、自分の中で再生産している。誰からも認められなくても、孤独の中でも自分を認めることができている。

受け取ることに慣れてしまうと、こんな言い方をしがちだ。
「自分を褒めてあげたい」
他人に対して求めていることが言葉に出てしまっている。あげたい=もらいたい、のだ。自分を褒めろと他人に求めている。

アトランタ五輪で銅メダルをとった有森裕子さんが「自分を褒めたい」と言ったが、「褒めてあげたい」とは言っていない。この二つを混同し誤解している人が多く、有森裕子さんも苦言を呈したことがある。

日本人は慈悲の文化だ。
慈悲という八百万の神々や仏が自分に向けてくれる施しに価値を置く。自分は常に大きな存在から受け取るべき立場なのだ。
それなのに現代社会はそれを許してくれない。比較と競争のなかで自分を誰も認めてくれないから苦しくなる。慈悲はどこに行ったんだと嘆く。

奉仕の文化ではそれはありえない感性だ。施されるものに期待してはいけない。与えることで得られる自分への誇りを褒美とした方がいい。

「自分を大切にする」のではなく、「自分を大切にしてあげる」と思っているから苦しいのだ。いつまでも卑屈なままなのだ。

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