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飛行機を使って早回りしたミャンマー

ハンドメイド作家のPlava Stabloこと、青木弘之です。

東南アジアの国ミャンマーには、今まで3回入国したことがあります。

一番初めは、1996年の秋で、ちょうどANAが関空とヤンゴンの間に初の定期便の運航を開始した時期でした。当時は軍事政権真っただ中で、入国時に300ドルの強制両替があり、国内でしか使用できない同額の兌換券に交換させられたという時代でした。

この旅行では、一週間ほどの滞在で、当時まだ首都だったヤンゴンと、ゴールデンロック(チャイティーヨ・パゴタ)、それにミャンマー第二の都市マンダレーをまわりました。ゴールデンロックは、行くまでの交通の便もよくなかったので、今ほど外国人が訪ねるような場所ではなく、おまけに雨期でしたので、外国人観光客は皆無でした。

というか、そもそもミャンマー自体、当時は軍事政権の影響下にあり、アウンサンスーチー氏も軟禁状態に置かれていたため、欧米諸国からの制裁もあったりしたので、そもそも欧米からの観光客が来ることがなかったのです。

1996年は、GWにタイとラオスに旅行していたので、同じようなノリでミャンマーに行ったら、雨が降れば道路は水浸し、よく停電はするし、食事をとればお腹を下す…といった感じで、のんびりしているけど、インフラは貧弱だなあ…という印象でした。

特に印象深かったのが、ゴールデンロックのある街から乗り合いのピックアップトラックに乗って移動していた時、いきなり乗っている車が横に傾いたかと思うと、前方にタイヤが転がっていくのが見えて、何が起きたのか?と思っていたら、車の後輪のタイヤが車軸から折れて、外れて転がっていってしまったことです…当然車は走ることができず、後から来る車をピックアップして、なんとか移動しました。

次に入国したのが、タイの最北端の地メーサイから、日帰りでミャンマーのタチレクに行ったときでした。タチレクの街中では、タイの通貨バーツが普通に使えて…というか、ミャンマーの通貨チャットの人気がなく、お店の人々はみなタイバーツを欲しがっていました。

三度目に行ったのが、2009年の年末で、ヤンゴン・バガン・インレー湖という、ミャンマーでも有名な観光地を飛行機で移動して観光する旅でした。

1996年に比べれば、だいぶ道路事情も良くなってはいたのですが、それぞれの街の間を陸路で移動するとなると、最低10時間は見ないといけないので、移動時間短縮のため、事前にヤンゴンの日系旅行会社に手配してもらって、全て飛行機で移動することにしました。

ヤンゴンの空港は、国際線ターミナルは新しい建物に変わっていましたが、国内線は、1996年に初めてミャンマーに来た時に使われていた昔のターミナルのままで、ずいぶんみすぼらしく感じたと同時に、懐かしくも感じました。

まず最初は東南アジア三大仏教遺跡の一つ、バガン遺跡に行ってきました。

現地では、馬車を使って、一日のんびり移動してきました。当時はまだ軍事政権下ではありましたが、欧米からの観光客もずいぶん目立つようになりました。

バガンの次はインレー湖に移動して、ボートに乗ってインレー湖クルーズをしてきました。さすがに大きい湖で、現地に住むインダー族の足こぎボートで行う漁や、水上に浮かぶ寺院を見学したりなど、とても印象深かったです。

ヤンゴンの街は、新しい高層ビルが増えてはいたものの、思ったよりも風景が変わっていないなあ…という印象でした。街中の人たちも、相変わらず民族衣装のロンジーを履いているし、顔に日焼け止めの効果があるタナカを塗っているし、こういうところは変わっていなくてホッとしたのも正直な思いです。

ヤンゴン最大のシュエダゴン・パゴダにも十数年ぶりに再訪しました。ここも変わらず黄金に輝いていて、まぶしいです。

ミャンマーでの豆本作りのための布ですが、なんといっても民族衣装のロンジーがあるので、これが手に入れば十分です。布を単に筒状に縫っただけなので、手間もかからずに一枚布に出来ます。ロンジー自体は、街の市場に行けば売られています。
旅行した当時は、まだ本格的な布集めはしていなかったのですが、各国の民族衣装に興味があったので、ロンジーは価格が安かったこともあり、既に購入していました。

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