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春の夢に なぎさちゃん

他人の夢の話ほどつまらない話はないと言うが、夢分析をすると面白いことに気づくので、時々ガチでやっている。まあ、特に人様に迷惑はかからない。自分の心を勝手に覗いているだけなので。
でも、手法は細かい。何せこれが職業でもあったので。

それで、ある一定期間を置いて観る夢なのだけど、自分が看取ったお爺さんたちやお婆さんたちが一人で出て来るときもあるし、ある時は2~3人で集っている。皆知っている顔だけど、その時の夢によってメンバーが微妙に違う。

だいたいは、皆で同じ卓を囲んでご飯をかきこんでいたり杯交わしていたりするのだが、皆さん一様に談笑して盛り上がっている。

『あ!てんちゃん!こっち来なよ!』と招き入れられる。患者さんや利用者さんたちが、その時代につけたあだ名なので、これまたその夢によって呼称が変わるのだが、私はいつも遠慮なく参加する。

私は、空けられた席、誰かと誰かの間に座りながら『なーんだ、みんな、お元気で良かったよ。』と言う。『もう痛くないの?苦しくないの?』とも言う。

『いやー、おかげさまで、もう、すっかり!』と言いながら笑っている皆の顔を観ているうちに、何だかホッとして涙がハラハラ出て来る。そんなふうにして夢の中で過ごしているのだが、これもよく言われるのが『心配しなさんな。』という言葉。

心配し続けている自覚はないが、そう言われると、ずっと心にひっかかっていたのだな?ということに気が付いて、夢の中でまた泣き続けてしまう。良かったよ、良かったよ・・・と言いながら、膝を抱えている。

皆さん看取った時期や時代が違うのに、何故全員が知り合いみたいになっているのだろう?まあ、そこは夢だから。

***

と、そのあたかも現実だったかのようなハッキリした風景の夢から覚めてユング方式だったりゲシュタルト方式だったりで分析していくのだが、色々と面白いことが分かる。

そして、目が覚めた時にが忘れているが、分析しているうちに思い出すこともある。
それは、長い会話の切れ端に『大丈夫だよ、いつも笑って暮らしてるよ。なぎさちゃんがいるから。』とか、『なぎさちゃんは面白いよー。ね?』などというセリフが混じっている。

現実世界では認知症の人に『誰、それ。』とか言わないで「そうなんだ~。」と相槌を打っているものだから、夢の中でもそうしていたところ『なぎさちゃんだよ!』と強めに言われる。きっと合わせていることを見抜かれているのだろう。
仕方がないので正直に「知らんな。」と夢の中では答えている。

専門的に分析しても、さっぱり分からない。何故ならば、生まれてこの方、患者さんたちはもちろんのこと、知り合いにすらなぎさという名前の人は一人もいなかったから。

夢分析をすると他のことはだいたい謎解きできるのだけど、この『なぎさちゃん』のことだけが、いつも分からない。

と、そんなことがありつつも、夕べの夢は春。夜桜を観ながら皆で杯交わす夜だった。初めてのことだったが、この上なく人数が多かった。
中には若返りしている人たちもいて皺がない。もはやティーン化している人たちもいる。
これは、ずっと以前に亡くなった人たちに順番に起こっている現象だ。もしかしたらそのまま若返っって、時が来たらまたこちらの世界へ来てくれるのだろうか。

夢の終わり掛けで、歓声があがった。『なぎさや!なぎさちゃんが来たで!』

慌てて立ち上がったところで目が覚めてしまった。

思うに、これは心理的現象を超えたことが起こっているのでは?と思う。元々紙一重的な部分があったのだけど、なぎささんとは、本当に他界している人で、今、私が大事に思っていた人々を楽しませてくれているのではないか?と。

その答えは分からないが、分からなくても良いほど、幸せである。もう、痛くも苦しくもないそうなのだから。

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