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分かって貰わなければならない場面

彼女と知り合ったのは、訪問とカウンセラーの仕事を兼業していた時代だった。

彼女もナースだったのだが、同時に舞台女優さんだった。ある日、白衣に坊主頭で居る彼女の姿に度肝を抜かれ「ど、どうして?」と言ったのが最初。当時の舞台の役作りのためだったらしい。

それから何度か舞台を見に来て!と誘って下さったのだが、一度も行けなかった。当時はカウンセリングの申し込みは需要があれば力の限り供給しなければ!と思い込んでいたから。
実際、ほんの1~2時間の逢瀬で相手の人生ががらりと変わることも多かった。

それから十年ばかし経ったのだと思う。コロナ渦で活動休止していた彼女から再びお誘いがあったので観に行った次第。はじめてだった。

齢40になったのだという彼女は舞台の中央で主役を張っていた。客席は満席で凄い熱気だった。

情熱が服着て演じているという感じの舞台で2時間があっという間だった。

が、一緒に観に行った同じくナースの友人が、終わるや否や、「すげー、疲れた。」という感想。
確かに。

脚本なのか?
あるいは演出家に恵まれてないなあ~と感じた。
多分どんな役でも演じる力量と迫力があるのだろうけど、彼女を始めとする劇団の一人一人の魅力をうまく引き出せていない感が満載だった。

開演の2か月ほど前にホームページを見たのだけど「賛否両論」という言葉が何度も使われていた。
発表前にここを強調する作品というのは、「つまらなかった」と言われた時に「ああ、理解できない人の方が多いだろうね~。分からなかったんだろうね。でも、媚びる作品は作りたくないんでね。」と言う言い訳が出来る。あたかも、つまらないのは観客のせいだと言わんばかりに。

その部分を読んで嫌な予感はしていたけど、始まった数十分で的中していると悟る。

たまたま自分もそういうことを考えたことがあるからかろうじて意味が分かる立場だったのだが、分かっていても演出や構成が下手過ぎる。
もう少し説明したり、場面と場面をうまく繋がなければ誰も分かんないよ!と危惧していたのだが、案の定他の人も首を傾げていた。

同じ場面が何度も出て来たり、一番困ったのは、YouTubeの動画みたいなものを結構な長時間見せられること。
花とか虫とか生き物の動画を見せられて、誰かの鼾が聴こえて来る。
役者が居るんだから、どこかから借りて来たような大自然の動画じゃなくて演技で表現すれば良いのにな。
役者を前に出したり力を発揮させるのが嫌いなんかい?(そういう本末転倒な人も居ると聞く。)

なかなか高額なチケットだったのだが、初めて舞台上での彼女を観れたことや、その演技に感動したことでも採算が充分に取れた。でも、だからこそ演出や脚本が残念。

おそらくなのだけど、「こういうふうにやれ」と言われ、台詞も決められている中で、「いやあ、実はこうした方が良いんだけどな・・・」等、俳優さんたちも色んなことを思い、ジレンマに陥るのだろう。でも、それが仕事なんだから仕方がないとも言うのだろう。
が、残念。

演じた俳優さん、女優さんが素晴らしかったので、余計にそういう野暮なことをあれこれ感じてしまったのだ。

観劇のあと「疲れた」という感想を持った彼女とご飯を食べたのだが「出来れば元気が出る作品を観たいよね。」と言われた。ごもっとも。

それは、何も喜劇が良いとかヒューマンドラマが良いとかそういうことじゃない。
物凄い悲劇でも、例えその観劇中にボロボロに泣いたりしたとしても、創作者によっては、どんなストーリーでも感動に変わる。
人間は、時間を費やしたものに関して微塵も心が動かないことを一番苦痛に感じるのだ。

制作者一人の絶望のために多くのスタッフと時間を使うという結果になっていた。どうしても、何やっても人間観が出るのが作品というものだから。

いや、その絶望ですら、もうちょっと丁寧に表現して行けば理解される部分も多いだろうに。

私はクリエーターではないけれど、分かって欲しい場面で分かって欲しい人に、なるべく丁寧に伝えて行こう。
目の前で友人が「伝わったよ。私の話も聴いて。」と言い、私も「分かったよ。」と答える。
料金が発生しない世界ですら人は、こうして伝える努力をする生き物なのだから、やはり、伝わらないものが売れるということはないのだ。
世の中は案外平等に出来ている。

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