孤独の涙は地に墜ちる
あなたと出会ったことを後悔しているわけじゃないのよ。
白い肢体をくねらせ、女はゾッとするほど妖艶な微笑で男を見上げた。
でもね、あなたとはダメだったの。ダメだったのよ。
黒く潤んだ瞳はひどく哀しげで、この女はそれが男の感情をかき乱すことを本能で知っているのだろう。
猫のような女だ。悪魔のような女だ。
それでも、男は女の華奢な白い肩を抱き締める。
それが何もかもの過ちだと、知っていながら歯を食いしばって抱き締める。
・ ・ ・
「忘れたいと思ったことはある? 私のこと」
「あるね」
クスッ、と帽子の下から小さな笑い声が聞こえた。
「ひどい人ね、貴方は」
「そういうお前は、ひどい女だよ」
「そうかも。そうかもね」
あの夜から一ヶ月ぶりの再開だった。
海に行きたいと突然メールを寄越され、言われるがまま連れてきた自分も大概だが。
この女とは、あの夜っきりのはずだった。
お互い、今更燃え上がるような恋ができるほど人生を楽しんでいない。
一瞬だけ燃え上がる、線香花火のような関係。
こんな恋人同士のようなことをする間柄ではなかったはずだ。
……あの夜、女が涙を見せるまでは。
女に泣かれることには慣れている。
感情の涙、快感の涙、憎悪の涙、利益のための涙。
しかし、この女の涙はそれのどれにも当てはまらなかった。
白い頬につぅっと雫が流れ落ちたとき、女はただこちらをまっすぐ見て微笑み、言った。
「私はね、地上に落とされた天使なのよ。」
意味は、聞かなかった。
ただの自己陶酔なのか、妄想癖の塊なのか。
そんな現実的な思考は、女の涙を見た瞬間に霧散した。
多分、この言葉は真実だ。
・ ・ ・
日が暮れる。
空が藍色に覆われ、海の向こう側が背筋立つ紅に染まる。
あまりにも美しい空は、時に人を狂わせる。
女は、狂気の色を背に従えて、男に向き直った。
帽子の下から、繊細なレース編みのような儚げな微笑が垣間見える。
「あなたでは、ダメだったのよ」
「何がだ」
「あなたじゃ、私を殺してくれない」
ーーああ、狂っている。
この女は狂っている。男は初めからそれを知っていた。
知っていて、あの夜、彼女の肩を抱き締めた。
それですべての過ちが始まると知っていて、男は。
「なのにどうして、私はあなたに会いたくなったのかしら……?」
「それはな」
言うのとほぼ同時に、男は、女を再び抱き寄せる。
燃え上がる恋人同士のように、人には見えるだろう。
「俺が、お前を愛したからだ」
「……あなたじゃ、だめなのよ?」
「知ってる」
女をきつく抱き締める。
飛べない天使を、男の体で捉えるかのように。
悪魔のような女だと思った。
蠱惑的で、男を籠絡する術に長けているとんでもない女だと。
しかも自分を殺してくれなきゃ……天に返してくれなければイヤだと駄々をこねる。
「それでも、お前は俺に惚れたんだ」
夕焼けに染まる女は、どんな天使像よりも美しい。
腕の中で大きく目を見開きながら、女は唇を震わせる。
「……あなたじゃ、だめなのに……」
言いながら、男の胸に顔を埋めて、女は泣きじゃくった。
まるで生まれたての赤子のように、自分は寂しかったんだと、大声で。
・ ・ ・
私はね、本当に天使なの。
前はすごくきれいな楽園にいたんだけど、気がついたら、私は地上に落とされていた。
寂しかったの、すごく。
あの場所があまりにも居心地が良すぎて、けれどもう、自分ではあそこに行けなくて。
誰かを頼って、あそこに戻ろうと思ってた。
でも、もう無理ね。
・ ・ ・
夜が開ける。
真っ白いカーテンの向こうから、柔らかなオレンジの光が差し込んでくる。
男は、となりで微睡む女性を見た。
日の光を受けて、彼女の輪郭はうっすらと輝いている。
それを見て、男は確信した。
やはり、天使だったんだ。
男が柔らかな頬に手を添えると、女の潤んだ瞳がパチリと開く。
彼女は、甘える猫のように男の手に頬ずりすると、少し恥ずかしそうに笑った。
「あなたの隣は、居心地が良すぎて困るわ」
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