【短編小説】雨の鳴く日は休みたい(ユウコの日々シリーズ)

朝一番に窓を開けると、すでに驟雨が降りしきっていた。

激しさとは無縁の細かな雨。

6月になれば嫌というほどみられる風景に、ベランダの手すりを叩く静かな音が道路の喧騒よりも大きく響いている。

「驟雨か」

ユウコの呟きは口の中で細かな風になり、それが外界へ吐き出された。

にわか雨、よりも、よっぽど素敵な響きだ。

感染爆発や気候変動でSF小説の1頁に似た世界になりつつある世界で、古より受け継がれた言葉を使い、先走る世界を少しだけ留めておこうとする孤独で無意味な抵抗。

……物書きを自称するなら、それぐらいやっても構わないでしょう。

けど、最近はその自信も喪失してきた。

仕事で、アマチュアのままでウェブライティングやウェブ制作に携わることになったのは半年前。

しかし、ZOOM会議で肩書きを持つプロを目の前にして、先日、思わずこう言ってしまうのだ。

「素人の文章で恥ずかしい」「知識が無いもので」

口からこぼれた空っぽの言葉は、ちゃちなプライドにぐさりと刺さった。

実際、現状も少し悲しい。

「何とかクライアントに提出できるものを」と指示され、知識も乏しいまま、数カ月をかけて噛みつくように作り続けたホームページ。

もしかしたら、これが一つの表に出せる実績になるかもしれないなんて少しうきうきしていたのは、ほんの少しの間でしかない。私の「作品」は、あっさりとプロの手によって解体されて美しく改修されようとしている。

当たり前だ、仕方がない、だって相手は肩書きを持つプロで、技術力だってたんまりあって。クライアントが求めるものを提出するのが、すべて。

そして私は、やっぱり背伸びをしても素人だ。縁の下の力持ちで良いと、自分の役割を決めたのも私自身。

自覚があるからこそ、あんな言葉を言ったのも、私。

落ち込む権利は、たぶん、ない。

けれども、ため息が出る。

全身の力を根こそぎ奪いさって、この雨音にあっけなく叩き潰されそうな吐息が、足早な世界のマイナス部分に重りを乗せてしまいそう―――。

「にゃあ」

マイナスのため息は、肺よりも底、胃より深い部分で霧散する。

そんなものより、眼前にひょいと身軽に現れた、ふわふわの毛に艶を持つ、可愛らしい生き物に意識が集中。

特段引き締めているつもりがなくとも「むっ」としていることの多いユウコの口元が、溶けるように弛緩して。

「……ご無沙汰ですね、雨さん」

雨と呼ばせてもらっている黒猫は、金色の大きな目をパシパシと瞬いて、ユウコの世界にひどく涼やかな音楽を響かせた。

・ ・ ・

雨の降る日は、仕事があっても休みたくてしょうがない。

気圧による体調不良や、濡れる靴、傘をさしているのにびしょぬれになる鞄の処理など、マイナスな面もあるからだが。

それ以上に、雨の日は落ち着く。

こんな日は、外に出ないで雨音に耳を澄ませてお茶を飲みながら本を読みたい。ぴったりの本は何だろう。こういう時にしか読めない本が、我が家には数冊。

一つは『薔薇の名前』、『ゲド戦記』も意外に雨とは相性がよさそうだ。『家守奇譚』もいい。『嵐が丘』や『ジェーン・エア』も晴れよりも少し曇った空が似合うだろう。まだ未読の『百年の孤独』も、そういう空の下で読みたいかもしれない。

そして――雨さんの接待だ。

雨さんは、数か月前から窓を開けると入ってくるようになった黒猫のお客様。名前の由来はもちろん、このお客様は「雨の日」だけ訪れるから。

人間をもてなすのは幼少期からの経験と、読書からの知識で楽しいものだとは知っているが、猫のお客様へのもてなしにはマニュアルがない。

けど、このお客様は用意した毛布を差し出せば、丸くなってくぅくぅ寝息を立て始める。

そうそう、それでいいの、というように、ピクリと右耳を動かして。

このお客様が来るようになってから、雨の日は締め切っていた我が家の窓は開けるようにした。それほどひどくなければ、意外にもこの家には雨粒が入り込んでは来ないことに、初めは驚いたものだ。

お前は休みが多いな。上司から、嫌味でなく、事実を言われた数日前。

吐き気を殺し、腹痛を抑え、這いつくばるように職場へ行き、電話対応をし、ウェブをこしらえ、必要があればライティングし、PCに不慣れなスタッフのため、彼らが名前を呼べば、そちらへ飛んでいく。

薬を受け付けない頭痛とは常にお友達だ。

こんな私は、社会人になれない。社会に出てすでに10年以上、20代後半になっていう言葉ではないけれど、どうしてもそう思ってしまう。

定時退社? 勤労精神? この言葉たちと自分を括りつけようと、もがき足掻いた20代前半。

それなのに、どうしても無縁でしかいられなかった社会不適応の人間に、なぜそんなものを押し付ける?

感情の起伏に底辺があるなら、私は毎朝トップレベルで底辺にいる。

でも、黒猫の雨に毛布を差し出した瞬間、ユウコの正面から吹き込んできた驟雨の風にハッと息を呑む。

低い温度の、吸い込めば胸の奥深くまで染み込んでいく濃厚な緑の香り。

平野の街中では決して嗅げないはずの、山のせせらぎが放つ、豊潤な水の匂いが風の中に、確かに混じっていた。

肌にとろりと触れる水気の感触。それは、何度か行った山奥の森を想起させる。

そう――あの日は霧だった。

深い森、蜘蛛の巣に首飾りのように散りばめ良られた水晶玉のような雫たち。息をひそめているのにはっきりと肌に感じる獣たちの息遣い。

神様はきっと、霧に紛れて人を見るのだと確信した日。

ふと、黒猫の雨を見てユウコは思う。

この雨は、目には見えない彼らからの、私や大勢の人々への贈り物なのかもしれない。

ユウコが組み上げた都合のいい、勝手な解釈話ではある。

けれど、心の中にくすぶる不満という熾火が放ち、身のうちに充満させていた心を屈服させる臭いが、風を浴びたその瞬間、滝の中で煩悩を払うように、流された気がした。

あぁ、これは―――。

雨が降っている。外にはなんて事のない灰色の街の風景。

街を灰色と思うのは、ユウコ自身が「すべてつまらない」と思っているからだと知っている。

それでも、努力を重ねてもぬぐうことのできない灰色の毒素を、雨が少しだけ和らげる。

「今日は、良い日になりそうね」

お茶を淹れよう。体に染みわたるハーブティーで、一時でもいい、心のざわめきとおさらばするのだ。

ご飯を作ろう。噛み締めるとわかる、この季節ならではの食物を命へ変えるため。

そして、何もしないで過ごす。本を読むのでもいい。ただ、眠りと夢の間で微睡む黒猫の雨と一緒に休息をとろう。

にゃぁおん。

雨の鳴く日は、休めばいい。

それが世のルールに反していようと、私の体と世の中との折り合いがつく間だけ。ひ弱なわがままを、ちょっとだけ叶えていこう。

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