僕ら ”蚊帳の外” 実はとんでもない不運な立場です。 だから投票行為による、政治への審判 結論は歴史に委ねます
【REASON】
此処数ヶ月、 #地上波キー局 #新聞 #NET で政治の話を見聞きする中で
私自身、もう真実はどこにあるのか、まるで解らず 正直混乱しているのです。混乱の理由は、僕らは蚊帳の外だから 当然といえば当然なのです。
だから、持ちうるもので、出来ることを堂々とするということは、出てくる「最終的な結論にも、僕らは責任など持てる筈が無いでしょう」という 思いからなのです。
僕らは蚊帳の外
蚊帳の外のイメージって、無関係という印象を受けますよね
とんでもない事だと思います。 英語なら Left out in the cold 厳密には
ニュアンス変わる気もします。
#蚊帳の外 という言葉を良くも昔の人は生み出したと思うのです。
【蚊帳の外】 は【除け者】よりも不味いと思うのです。
除け者なら、輪に入れないだけなのである意味で、
和の中にいれば得られるものが得られないという意味で考えると、不都合はあるけれど、まあ、限定的です。
一方では、蚊帳の外 蚊帳を貼る理由は 蚊 がいて 蚊 による被害が想定されているので、蚊帳を張って、蚊の脅威から逃れようとするのです。
つまり、蚊帳の外にいると、蚊に刺されるのです。
科に刺されることで、その先には感染症のリスクもあり、何より痒いという害もあるのです。
まさに、今の我々は政治の世界では蚊帳の外と感じるのです
ここにきて、僕ら 一般人も政治に巻き込まれていますね
ま、もともとが政治は 国民一人一人のためにあるのが本筋なのですから、当然のこと国民は巻き込まれてしかるべきなんですけど・・・
蚊帳のそとにいて、かつ蚊帳の中の問題に巻き込まれるということは、蚊帳の中の問題の責任の片棒おも担ぎながら、蚊帳の外で、蚊とも対峙して移管きゃいけないのです。
これを、現実に照らせば、我々は日々の生活、仕事、天災地変、健康問題、家族の問題 様々な課題に対峙して、なおかつ大切な選択も迫られる。
まして、その選択肢の材料は極めて少ない、そこにはメディアの情報が大部分をしめるのです。
四面楚歌ではなく まさに 蚊帳の外
日々の、生活者としてのゴタゴタの、発生理由に政治は無関係ではありません。政治こそ我々の生活そのものですから。
にも関わらず、一版国民一人ひとりは、もちろんこの私も同じです。
不勉強というか、学ぼうとしても、かなり思いきって情報を取りに行かないと、政治政治家の皆様方、官僚の方々とは、同じ景色を見ることなんて絶望的なのですよね。かなり、積極的に情報や知識を取り込もうとしても、正直、無理でしょ という気持ちにさせられます。
にもかかわらず、マスコミの報道だけ見聞きして、解った気になっているとしらた、それが正しい理解でしょうか さらに、ネット上の著名人の政治に対する話や見解もまた、王手メディアよりも、時には突っ込んで寄っている可能性もあるので、これもまた、鵜呑みの理解で良いのかというところです。
さらに言えば、知識と情報に自信を持っていても
HP覗いて、国会中継観ているだけじゃ、物事の本質なんてわからない。
そう、わからないのに、ショートタームで、良いだ悪いだ 結論を急ぐ
政治家の方々だって、何処の生まれかしらんけど、今は東京や神奈川、千葉や埼玉に住民登録のあるサラリーマンが、800円程度のランチ食いながら仲間と情報交換しながら出した結論に重きを置くかは何とも言えないけれど、それなら週末、地元に帰って地盤固めに努力する様になっても不思議はない、というかそれが大切でしょう。
審判は歴史に委ねる 限界回避の義務の遂行
政治も料理も同じだけれども、きちんと食べて身になってはじめて評価すべきで。見た目と、一口つまんで評価しても何もわからない。
結論を急がず その人の今を観る 政党の今を観る 役所の今を観る
その今を観て、その時の自身の考えを反映させれべばいい。
決めかねるなら消去法でもいいし、決めなくてもいい
極端な言い方をすれば、間違えば修正すれば良い、チャンスは常に訪れるのですから。
そして、最終的な評価と結論は、歴史に委ねて良いのでは無いですか。
歴史を振り返ると、世論は時に暴走したり、道を見誤ってしまったり。
踊らされて、全身で踊りまくったり その時には良かれと思い、後に猛省、様苛まれることがあるのですから。
だから、我々は評論家になるのではなく
都度都度、自分を信じて、自分を気持ちで投票し
後は、判断を歴史に委ねてみることだと感じています。
あつて、あの偉人の言葉として言われている言葉
⚪政治は生活です 街で暮らしている 一人ひとりの生活の中にあります
そのことが、疎かになっているのなら、一人ひとりがするべきことは明確
私個人は、 #コンサバティブ なベースを持ち、けれど常に #リベラリスト で いたいという、少し矛盾した考え方かもしれません。
此処20年の経済 財政政策は本当にお話にならなかったと思っています。
同時に、政治に自由が全く無い息苦しさを感じ
保守への絶望がもたらした 政権交代で与党となった野党の 一つ一つが
全く持って政権を担うだけの、ベースすら持っていなかったことに、さらなる絶望したことを記憶として持っています。
これは何も野党だけに言えるものではないのですが、票のために大義が崩れる、これはある種の現実であり、悲劇です。
【これは勝手に感じている事なので、事実は違うかもしれません】
昔あった、左派から中道左派系へと徐々に変化した政党が、それでもどこか左派的傾向が強く、労使問題も圧倒的に労働者目線で動いていた野党政党が、万年野党から、事によると政権を担うことになると考えた時、もしくは連立を可能性にいれた時、一定保守色を打ち出さないわけにはいかず、なのに支持母体は同じであれば、それは中から壊れていく、みたいなジレンマも
あり、変化は時に崩壊を生む。
そう考えると、今よりも私が子供の頃は、政治が今よりも身近だった気がします。
さあ、蚊帳の外から いずれは 有権者は蚊帳の中にと思います
それにより、蚊帳の外だけのロジックを消し去り
政治は、国民のものになると信じたいのです
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