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Angels and demons of journalism  天使の報道 悪魔の報道 大衆の責任

予告までして書いています。

なぜ、これを書きたかったのかと言うと、そのソースは、youtubeだった。著名な芸能人のそのチャンネルの主であり、大変重要な昭和史と一人の人物のこととを伝えていた。その人物に関してのことを言うと、私自身、この人物に少なからず尊敬を感じていたこともあり、何冊かの本も読み、知るべきことは既に知っていたのだけれど、この動画を見ていて思ったことが今回のテーマとなる。

#最近の学び #ジャーナリズム #学問のす ゝめ

主題:完全なる正義を貫徹するために悪を白日に下に晒した行動が、もたらした現実、正義とは何なのか?

昭和のある日、さる月刊誌に記事が載る、ここには時の実力者の行った不正を暴いた、徹底的な取材と、今日にも通じる画期的な取材手法を展開し、深部にいたるまで、その不正を晒した。その不正の内容というのは、#錬金術 と表現しているが、たしかに卑金属購入し貴金属へと変化させて販売するという行為が金属ではなく、ここでは主に土地で行われたことを考えると、この表現は良い得て妙と言うところかもしれない。この報道とあわせて、同氏の関係する様々な事柄が報道されると、職にとどまることは難しくなり退陣を余儀なくされた。

退陣後に、さらなる大きな事件が、先ず海外で発生し、これに関与したという事で、前出の人物が逮捕されることになる。これにより、この裁判は、長きにわたり(16年)、被告人死亡により控訴棄却となり、審理は打ち切りとなった。この事件に関しては、今日でも様々な事が言われているのだけれど、この人物の事で言えば、退陣を決定づけた件よりも、有名なのは、退陣後の事件の方であり、ここからは、あくまで書き手の憶測なのだけれど、今日書きたいことはここにあります。

ジャーナリズムと法制度 

裁判制度というものは、その人間が犯したとされる事実の審理を行い、法に照らして、罪の有無と、有罪であれば量刑を判断するものだと認識している、その中には、情状酌量の余地が有るか無いかも検証されるとはいえ、これは、起訴されている内容に対してのものに限定されると思われる。

単純に言えば、法制度というものは、罪を裁くものはあっても、功を検証するものは無いと言うのが現実だろう。勿論、叙勲、感謝状 などが、それだと言う声もあるのかとも思うのだけれど。

功罪をあわせて評価するものはない。

これ、ベースに立ち返って考え見ると、やはり、ジャーナリズムも同じで、罪を裁くことには功を讃えることに比べれば、あきらかにかける人材も、費用も、時間も多い気がする。この社会においては、常に減点社会となりってしまい。人々は、罰を恐れ罪を躊躇する。良い事じゃないか? そういう声もあろう。本来、罪とは罰を恐れ躊躇するのではなく、罪はおかすべきではないと、自制すべきものなのだ。こうなると、功を務めるエネルギーはどんどん失われ、罰を恐れることばかりが先に立ち、なぜ罪を犯してはならないか、その意識が希釈されてしまう。これこそが、思考停止の世の中だ。

ジャーナリズムの現実

誤解を恐れずに言うならば、ジャーナリズムの正義が、一人の人間を、天使か悪魔に振り分けてしまう。以下は、ここまで私が書いてきたこととは違い、遥かに極端な事例だけれど、考えてほしい。

例えばこんな話はどうか、著名な人物いたとする、その人は弱きを救い、沢山の尊い命を救った人物として、人々に尊敬されていた。けれどもその人文は、過去に小さな罪を犯した。その罪とは、その人物がに、ある時職を失い、空腹に耐えかねて、店先のパンに手を伸ばしてしまったことだ。彼は窃盗でとらえられ、その罰はその後きちんと償われていた。が、ジャーナリズムは偉人の過去のスキャンダルとして、そのことを大々的に書きたてた。それを知った人々は、彼を偉人から悪人へと、振り替えた。彼は、信頼を無くし、いままで続けてきた職を辞するしかなくなった。結果、彼に巣食われる筈の人々の多くに救いは届かなくなった。

Qこの場合、ジャーナリズムが誤っているのか? Aそれは間違ってはいない。

Qでは、民衆の反応が悪いのか?        A悪いとは言い切れない 

Q彼は被害者か?               A ・・・・・

Q彼に巣食われる筈だったの人は?     A 救われる可能性を奪われた

ポイントは1点だけで、ジャーナリズムは、未来を変えてしまう危険があるという事です。

では、どうすればいいのでしょうか?

一つの答えがあるのだとしたら

大衆の成長と成熟

この問題を解決できるとしたら、おそらく、一つしか方法は無いのだと感じます。それは、大衆の成長です ジャーナリズムの送り先、受け手である大衆の反応が、今よりも確実に成長できれば、ジャーナリズムも変わります。ジャーナリズムを天使にするのも 悪魔にするのも 大衆の反応なのだと感じています。司法が対応できない、功罪の功を評価することが出来るのは、大衆だけです。大衆が評価することは、何より大切なのです。さらに言えば、ジャーナリズムには最終判断を委ねさせない事です。正確で悪意ない報道が評価される大衆があれば、彼らも変わります。

では、どうしたら、大衆は成熟出来るのでしょうか。

大衆を変えられるのは学びと経験だけ

ここまで、書いてきて、私の結論は、三度、ここに辿り着いてしまいました。それは、日本人がこの先、成熟して発展していくために不可欠な事は、正しい学びを置いて他にありません。けれど、正しい学びとは何か?それをシンプルに言い当てるもの、今、残念ながら思いあたりません。自らで探していかねばならないと感じています。

ただ、手本となるものはあります。

それは、既に1872年に【福沢諭吉】により出版されています。【学問のすゝめ】色々考えれば、考えるほどに、ここにはシンプルにものの考え方の基本が示されていました。ただ、私は提示した問題が2021年6月末の時点で、存在するということは、150年近くたっても、我々は成長できていないという事の証明かもしれません。

例えば(以下wikiからの抜粋)

学問には個人的・社会的の二種類の目的があることを書く。個人的な目的は生活の独立だが、社会的な目的は、業績によって社会の進歩に貢献することであり、それは人間の義務であると説く。

日本の独立維持の条件に学術、産業、法律の発展をあげ、政府主導の振興策が進展しないのは民間の力不足が原因として、民間を主導する責任は知識人層にあるとする。そして当時の知識人の公職志向を非とし、福沢自身が在野で知識人層を先導する決意を宣言する。

物事を採用する前に、慎重な検討と取捨選択が必須であることを述べる。西洋文明の進歩は既存の価値観に対する疑問から発生したことを説き、西洋文明そのものすら盲信することを愚として戒める。

このように、今に照らしてもなお、学ばねばならないと感じさせます。

お付き合いありがとうございました。






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