ちょっと詰め込みますよ
〈神々へのあいさつ〉
食事前の合掌で神たちへ意識を合わせていったら、涙が出て来てしまった。昨日、”神への憧れ、側にいたかった”と書いて、ソコにフォーカスする度にボロ泣きしている。
私は神へ何か申し訳ない事をしたのか?ただ純粋な憧れなのか?どちらでも良いし、何でも良い。やっぱり私は神さまが好きなんだ。
詳しい事など知らないけれど、私の想う神のイメージへフォーカスすると涙が込み上がった。 ありがとう 私。
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7/10メモより
【静かにしていたい…】
そう言った事が”コマンド”になってしまうかどうかは分からないけど、「やっぱりそうなっている(流れ)」、と思う事はある。
今日は朝から、静か~な心、どんよりにも近い。「そうなっている」と仮定するならば、「じゃあ、気分は上げて行った方がいいよね、そう繋がっていくんだから」と言うのは無理してやっている事と捉える。
高い所だけを飛ぶのが人じゃないから。気分よく「高い所を飛ぶ」状態でいるには、中(芯)から湧く”満たされ感”があること。
で、これらを私は”フォーカス”と考えている。
脳が記憶をたどって”それ”を引っ張り出してきている。「物事・事象」を引っ張った(起こした)のではなくて、記憶を引っ張った。
まず、ここに区別は出来るだろうと思った。
(※実際には”静かにしていたい”と思う状態が先にあり、それを発したという視点に立つ事が出来る。この時に記したままを記載)
と、一旦ここまでで、例えばネガティブは良くないという考え方もあり、そこにハマらずポジティブへ切り替える、という在り方、段階もあると思うのだけど、私が伝えたい「段階」の話で進めます。
「低い」時を悪い、と捉えなくなると、ソコでも自然と観察は続き、反ってその静かな時に静かなモノに触れる事が出来る、と心得よ。
ただ静か の中に流れるものを見よ
(↑口調が途中から変わってしまうけど記したまま記載)
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7/10メモより
自然に浮き上がる。
ここにはムリがかかっていない。ただ「待ってみる」と言う姿勢が必要なだけ。
私も「待つ」という事は基本的には好きじゃなかった、「この世界」では。
でも、視えない世界では「待つ」という事は比較的出来るようになってきた。(恐らく、この”待つ”は、こちら側の世界でカタチになるとか、何か受け取るまでの”空”な感じを、待つ、と言っているのだと思う)
この「待つ」という事が人は苦手なんだよね。そう思うとやっぱりこの世界は、いくらかの修行と言う考え方を出したくなるね。
「切れる」事の恐れを放棄してみる。
情報が来なくても(受け取れなくても)、それはそれ。
例えば私の「書く」という事で言えば、今書く事がないならば、「その状態でも良い」という肯定。そもそも肯定も否定も、自分が採用している基準ね。だから本来どちらでも良い。
”宇宙はYESしか…”という表現もあるけども詳細にはどちらも。「YESもNOもある、ない」という、ただ「ある(存在する)」だね。
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今、引き目線でまとめると、怖いから動いて「怖い」を感じないようにしている、と言う話になってるね。
まず、それを知る事。そして、実際に止まっていても怖い事、起きていないでしょう?
アタマの中の記憶、今までの習慣に支配されなくなると、「止まる」事も味わえる。
荒い波動の中にずっといると、その波動しか感じられない。その中にいないと、不安になる。
これをホルモンで分けて考える事が出来るもんね(*^^*)
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上記とは別の話。
「調和が心地いい状態」。それは真理と思う。
なぜ、心地いいのか、エネルギーの満ち欠けがないから。
人で考えると、
・寄りかかる→自分の域から飛び出た状態
・受ける側→①自分が調和状態なら、既に満ちている為、負荷。②欠けている”不足”の状態なら、寄りかかられることによって、「欠け」が埋まるから心地いい。
「全てエネルギー」と言われるのは、こういう事かな、と私はイメージした。
そして、ハッキリとした性格の私に、知識と言う”武器”まで持たされていたなら、きっと私は、かなり鋭い切り出し方をしたかもしれない。
(感覚から捉えるから分からないけど…)
という私の中の「断言できないワンクッション」が、少しばかり柔らかさを与えてくれる。
これも「私の中」で調和されているんだね。
持っているものを上手に使う、調和。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!