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”内外”とは意識・無意識

「物語」を考えなくても、日常そのものがストーリーになっているということに人は気づいていない。ストーリーを作りに脳内に入るが、現実に出ればただそこに物語はいつもある―――。

自分自身がいつも”物語”でしかないということに、まったく気づかぬ滑稽。そして他の語りをモノガタリとして自分の目に映す。

まったく同じことなのに。

誰かが誰かを見ている状態は、まったくどこを取っても同じこと。そしてその、一番近い”自分”の日常に目を向けた文言はあまりに耳慣れず、物珍しく感じる非日常のように。

誰もが自分の真っ只中。

その中に居るから全く見えていないということに気づくまで、外だけがいつまでも輝かしい世界のままだね。

・・・

ウチソト、内外。
私たちは”逆転”した中で生きている。

現実のこの身体を使いきちんと思うように動く。一応目も覚めている。この普段に、何も考えることなく立っているこの”地点”、状態が、そもそも「現実」の入り口でなかったら、そこから観るものはまったく現実の世界じゃない。

不思議なことに、無意識に、当然の前提として「現実の中」を生きていると思っている状態の殆どは、現実なんかじゃなくて機能に収まった”その世界”であって、だから「他」の語りが鮮明に感じるし、しっかりと見えるのだろうと思う。他者のそれは、現実のことを露わにしているものだから、自分の中の、響くものソコが刺激される。

自分自身がソコを活動させている時は逆にそれを感じることができない”実感”があって、少しズレた、時をズラした連なりを視て「自分自身がその状態にあった」という客観ができる。


連なった時、繋がっているのを自身が見れた時、そこに「自分も物語だ」ということに気づける。

自分とは、外からしか”実感”を感じられない不思議な存在かもしれない。

距離的に「近づいてきた」と感じ進み、その先に届いた実感のなさ、その時が振り返って「自分」だという風に感じる

”いう風に感じる”
実感じゃない、「感じている」。

言葉に姿を変えてしまった自分、”実感”というものさえ”私”自身はその時感じることができない。そう感じることができるハタラキの中に入り込んだ時、そう思わせてもらって、何も理解されない時に「私」はそこに居る。


どちらのエピソードも面白くて、ここから1つを書こうと思っていたのだけども、そのまま連ねていく(予定で)と、長くなるので、周辺話で今回は。エピソードは、例の「食洗機はどうなった?!」からの展開と、ピースの「お利口へのみち?」と。

もう、全てのこの周りに起こっている出来事が不快を抱えながらも、おもしろく、「物語」として文句なしだった。物語をしながら考え、機能をしっかり使っては後にまとめ…、身体も疲れる(笑)

では”周辺話”、そのモノゴトを埋める?その隙間に観えた?ことをポツポツ書いていきます。

・・・

追えば多分、「どちらが先(後)だったか」は分かるのだけど、あまりそこに関心は持ってなくて、気づきに上がった所からの”順序”で言えば、「状態」が現われ、それを観測する”言葉”がついた…とみている。

「気づきに上がる」為には、ソレと「気づかなければ」ならず、気づける事象が”ある”ということなので、「既にソレはあった」とみれば、ソレという存在が先…という説明になるので触れない。

「見え方」が違って、色々が見え出したから、表現する内容が変わっていく訳で、”自覚しながら言葉遣いを変える”ということは、違う見え方がされている状態になり、今までが”あっち”に見えるように捉えられる位置から「今まで」を観測する目線があった。


「今まで」を普通に見るその目線を自分は知っていて、今度はソレを向こうに観て今までを客観できる目線を知って。別の言い方をすると、前者はそこに「内側から”内装”を見ていた」ような感じで、後者は「それごと」を包んで見えるような感じ。

そしてその両方を識って、そこにあった「差」が肚に落ちていく―――。

その時「こういう事だったか…」「なるほどなぁ…」とか、今までが”内装だけだった”ことに気づかされたりする。そしてそれらの流れから、今までの形が自然なかたちで崩れている(いく)のを軽く感じていて、その後にいつもの動作に自ら疑問を抱くという思いが湧いて、はっきりとゲシュタルトが崩れたと思った。

崩壊には色々なパターンがあると思うのだけども、今回は初めての入り方(流れ方)だったように思ってとても印象的だった。強い衝撃がなくてもサラサラとしっかりと崩れるんだ…と。

この成り行きはいずれ判ると思う(自分の言葉で説明できるの意)ので、今は放置。ただただそこから創るものを自分で考えて決めることのくり返し。


この「内・(外)」の感覚が必ず無意識に自分を包んでいて、それは時に強固な境界線になっていたりもする。この現実には一切そんなものは見えたりしない、だけどしっかりと、あたかも存在するかの体で、自分の動作が行われていたりする。

”意識”を主とした見方で書くと、ここという「自分枠」からその枠外へビヨーーンと伸ばしに伸ばし、伸びていく意識のそこから観れば、”あっち”に今までの”自分”が居ると感じる。今ココへ(枠の外へ)移動してきているのに(笑)

この辺りの文章の”内容”から(言葉の意味内容からではなく)、「私」というものが変化というか、どんどんあちこちへ移動しているのがみえてくると思う(見えないか笑)。身体の”私”は今、PCの前でこうしてパチパチしているのだけども。


「自分」が移動しているのか、ただ”意識というもの”が広がったり縮んだりしているだけなのか…。どちらも実体でないソレを一時の固定した状態からの観測で言葉で表現されている。

私(自分)が主となっているのか、意識の”状態”を私と読んでいるのか、時々で変わってしまう。言語には意味が持たされているけども、”その場”で言葉は変わり続けてしまう。

仮想の中に脳を開くのでなく、世界の中へ脳を展開する。

同じ様な表現なんだけども、後者は身体を置き去りにできないものとする。

誰が決めた訳でもないのに、「内外」の感覚を持ち、その中で動いている。無意識にその範囲は自分で決めていて、その「外」で活動しだすと「あれれ…」なんて感じることが始まる。

これは後日(明日以降)書く予定の2つのエピソードにしっかり共通する流れとして緩やかに繋げた所で今日は終わります。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!