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身体に意識を向けさせられる

10/27メモ

【自分を何年か、または今年をザッと大きく振り返ってみた時…ほぐし】

思考(自分のクセ、パターン)などのほぐしをこなしていた事は分かってきた。

ふと。”身体のほぐし”が視えてきた。

体に身に付けてきたものを言語化するのは難しい…、と以前にこの様なことを書いたのを思い出す。

血肉になっているものをバラすようなもので。それを思い出した時、数年・今年単位での”流れ”をみて、〘身体のほぐしによる”結果”⇒動き出し〙というものには、時間差があると感じた。


その”ほぐし”から始まるので、きちんと自分の身体が解れた状態でないと、柔軟な動作・動きが取れないことを観た。だから、口に出して言ってから動作として(ある程度のカタチの意味)現れるまでに時間が経っている事が判る。

言葉と共に動作できるものは、既に常時使っている、ほぐされたカラダの部分、使い慣れているコト。ここにラグができるのは、身体の準備に少し時間がかかり、ほぐしに始まり、そこからやっと口外したような”動作”に入れる、そう感じた。

・・・

メモはこの後にも続いているのだけども、一先ず。

「動作・行動」というものを、メモの様に観たことはなかったので、それを感じた時「なるほどな…」と思いメモしていた。因みにこれは、風呂場で・出る前の”水切り”というルーティンをこなしながら、脳内を視ている「瞑想状態」での事です。

2つのパーツに分けて書きます。
①”長期”目線
②今年の半年くらい


私は、この約10年程は専業主婦として生きている。大分大分前にはそれらの事も触れているけども、現在においてそれをあまり詳しく書こうというつもりはなかった。

Xを少しやるようになった2年くらい。ここでの情報はビジネス系の話も多く目にする事になり、私は自分が「最新情報に」更新していないことをもちろん知っているので、話すことも予定もなかった。

ただ、目にしているものを眺めていると、やはりその中から、もっと言うと「変わらないな」と感じるものはあって、自分の中の封印を”解く”ように少しずつ漏れ出した、という様に感じている。


「もうやらない」
そう決めてそこから離れたので、その手の情報収集は一切しなかった。その様な経緯で私は今の専業主婦になった所があったものだから。

だけど様々を目にしているうちにその「変わらないな」と感じることを少しずつ、何かに繋がるならば…という考えで出すようになるわけだけども、その時の自分の思いを、「引き出せるかな…?」というような言葉をつけたことを憶えている(どこかで書いている)

自分の中に畳み込んだ、もう既に10年も動かさなかった情報。

それをここという場所に持って来ることに”ウォーミングアップ”が必要と感じていた事が判る。これを「ほぐし」というふうに、私はまず捉えていたので、普段に使っているモノならば、すぐにでも取り出せるものが、そうでないことを感じている―――。



具体的なことは既に忘れているのだけども、「身体のストレッチ」を日々続けるようになった事が思い出されていた。

動こうと思っても、かなり走れないと感じたワン散歩だったり、筋力が落ちて、無意識にそれを庇うような身体の使い方に切り替わってしまっていたり。何より、自分があまりストレッチ運動をしていないことを、その時に自覚している。

その時はもちろん「身体をしっかりほぐす」ということを目的として行い始めた訳だけども、間もなくそれは、身体の解れは「心(=脳)のほぐれ」と連動している事も自分自身が体験を通して実感する。

その実感があるから、さぼりながらも定期的にストレッチする事は継続している。


身体の柔軟さ。
そこから「思考の柔軟性」に繋がっていると感じている。私は身体が柔らかいわけではないし、ふにゃふにゃにしたい訳でもないけども、とにかく股関節だけは凝り固まらない様に、一番重点を置いている。

その様なことの流れの中で、”オシリの事件簿”があったり、あの時は本当に自分の身体を見せられた時だった(この時は内部)。しっかりと、考えざるを得ない状況だった。これもまた身体をバラバラに見る所と、その繋がりを感じさせられるものとの、両方がこの時意識に上がったように思う。

・・・

できごと的にはこの様なことがあって、「現実の事としてそれはこなして処理する」ことと、その後にそれらを振り返った時に「括れるもの」として、でき事を”表面的な事象”として違う層で視ると、メモ内容のことに繋がっていった、という話です(*^^*)

(こうして”書く”作業で出力すると、説明が「後」なのに、この説明部分が非常に多くて、私の中では”何か”が逆転しているような錯覚を覚える。あくまでも脳内に浮かべたのは「そうかぁ…」という短い回想程度であって、言葉での説明は、その部分を押し広げて補足したに過ぎない)

10/29メモ

長い期間をザッと流し見て。
その”景色”から括れるものってある。

デキゴトに意識を下げすぎず「ザッと」というスピードがポイントでもある。

そうすると、”下げない状態”、その層でしか掴めない情報(程度)なので、「この時あーだった、こーだった…」の感想の入る余地がない。

・・・

自分の持つ”意識”によって、これだけ見えるもの・見え方(捉え方)というのは変わってしまいます。

いつもが同じように見えるのだとしたら、”同じ場所にいる”という事がまず一つは言えてしまいます。この「同じ場所」は物理空間の意味だけではなく、脳内に置く”自分の居る場所”という意味です。

そしてここに書きながら思ったのは。

その”現実世界に自分がいる時”というのは、この現実側でモノコトを行っている時というのは、あれやこれやの刺激がたくさん、方々からやって来るという事なんだと思います。

それは、こちらの想定すること”ばかりではないから、動揺もするし様々な思いも湧き起こるのだけども、その数が少しずつ自分に溜まっていく事が、肚の重さになるのだと思います。


全然関係ないんだけど。

書いたもの(ここでは自分のポストしたXのこと)を、少しまとめてザッと読み返した。

その内容は確かに、事実を書いているのは当たり前なんだけど、その体裁という”形の作り方”には、自ら「…、こういう文にしたんだ」みたいな思いが湧くものもある。

そこから、組み立て方というのは、いつも同じにはならないものだな…、と感じた。その時々で構成される形は変化があるものなのだろうと思った。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!