見出し画像

ジーキル博士とハイド氏

"なにも透さぬマントにくるまっているのだから、わたしの保身は完璧だった。考えてみてほしい、わたしは存在すらしないのだ!"1886年発表の本書は、誰もが知りつつも、かえって読まれない不朽の名作にして、また【人の持つ多重人格性】をいち早く紹介している作品として読み応えがあります。

個人的には、メアリー・シェリーによる『フランケンシュタイン』を読んだ後に【映画イメージとの差】にびっくりした事から、本書に登場し、映画では悪の権化の代名詞的存在のハイドは【では一体、原作ではどのように描かれているのだろうか?】と興味を持って手にとりました。

さて、本書は約150ページの内、前半約80ページでは高潔な紳士として名高いジーキル博士の家に出入りする謎にして出会った人に強烈な悪の印象を残すハイドが起こした【事件から謎の失踪】を描き、後半の約70ページで関係者やジーキルの【遺した手記】という形で事件の顛末が明らかになる構成になっているわけですが。

刺激的な情報に麻痺した感覚では『小柄で嫌な顔をした』ハイドによる『凶悪な行為』は些か地味かつ迫力不足で、近年のハリウッド映画で【巨大かつ暴力的マッチョ】に描かれてしまうのも、致し方ないのかなあと感じた一方で、ベストセラーとなった本書から数年後の1888年に実際に起きた『切り裂きジャック事件』とハイドを重ね合わせて恐怖におちいっていた当時のロンドンっ子もいたのかな?とも想像したり。

また、SNSの普及により、若い世代においては【用途や相手との関係性に応じて】複数のアカウントでキャラ(人格)自体を『設定として』演じるのが良くも悪くも定着した【全ての人がジーキル博士とハイド氏状態】の現在。もしジーキル博士が今の時代に生きていたとしたら。悲劇的な結末もハイドという『別垢』を設定する事で容易に回避できていたのではないか?と【それを言ってはおしまいな】事を考えてしまったり。

平野啓一郎の提唱する"一つの肉体に複数の人格"【分人主義】に共感したり、自身の多面性から『本当の自分探し』に悩む誰かへ。また、古き良き怪奇小説を探す誰かにオススメ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?